今日は5年振りに北九州へ行く日。朝6時に自宅を出て、羽田空港へ。
空港駅を降りた直ぐ前のフードコートで朝食。
サンドイッチなどを食べる。
早い便で、空港ビル内は、まだそれほど人が出ていない。
朝の羽田空港。
今回の北九州行は観光というよりは、仕事の合間に時間が取れれば、少しでも思い出の地を廻ってみよう、という事だった。最初にこの町に来たのは、もうかれこれ20年以上の前のことになり、一時人口が120万人を越え、4市合併直後の勢いの良かった頃から、新日鉄八幡工場の高炉の火が段々に火を消し、と共に人口の減少に歯止めも掛らず、100万人を越えたり、下回ったり、の、衰退の道を進んでいるかに見えた町だった。
だから、当時伸び盛りで、勢いの良かった福岡からこの町にやって来た時は、如何にも田舎の街にやってきた、という風情だった。駅前も整備されておらず、勿論都市高速もなかったし、モノレールも走っていなかった。唯一、若戸大橋が、当時の日本一の大きさのアーチ式鉄橋で、洞海湾に空高く弧を描いている姿が見えるだけだった。
そうした思い出の地、北九州へ今回は5年振りでやってきた。5年前は今回同様福岡に用事があって、その仕事を終えてから、この町に住んでいる古くからの知人を訪ねる為、昼飯を食べにやって来たのだが、数年振りに会った彼とは、Royal Hostで昼飯を食べ、小笠原宗家の自宅を案内してもらい、そのまま別れて、福岡まで戻ってきた。
彼は現在かなり重篤な病気で、自宅で臥せっているという。出来得れば彼の自宅を訪問し、見舞いたいのだが、彼の方は、当方の訪問を頑なに断っている。どうしたものか・・。仕事が終わり、時間が取れたら、もう一度電話をしてみよう。そうした北九州への回顧、彼への思い、仕事の事、等々を胸に収め、今朝の出立となった。
だから、当時伸び盛りで、勢いの良かった福岡からこの町にやって来た時は、如何にも田舎の街にやってきた、という風情だった。駅前も整備されておらず、勿論都市高速もなかったし、モノレールも走っていなかった。唯一、若戸大橋が、当時の日本一の大きさのアーチ式鉄橋で、洞海湾に空高く弧を描いている姿が見えるだけだった。
そうした思い出の地、北九州へ今回は5年振りでやってきた。5年前は今回同様福岡に用事があって、その仕事を終えてから、この町に住んでいる古くからの知人を訪ねる為、昼飯を食べにやって来たのだが、数年振りに会った彼とは、Royal Hostで昼飯を食べ、小笠原宗家の自宅を案内してもらい、そのまま別れて、福岡まで戻ってきた。
彼は現在かなり重篤な病気で、自宅で臥せっているという。出来得れば彼の自宅を訪問し、見舞いたいのだが、彼の方は、当方の訪問を頑なに断っている。どうしたものか・・。仕事が終わり、時間が取れたら、もう一度電話をしてみよう。そうした北九州への回顧、彼への思い、仕事の事、等々を胸に収め、今朝の出立となった。