ちゃおチャオブログ

日々の連続

村上春樹「1Q84」を読む。

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去年のノーベル文学賞の最有力候補者は村上春樹だったが、残念ながらダークホースの瞬暁波に決まり、3年連続で取り逃がしてしまった。しかし村上は優れた作家であるから、去年がダメだっとしても、今年、或いは、ここ数年内には見事栄冠を勝ち取ることはできるだろう。今回この「1Q84」を読んで、その感を強くした。
 
過去村上作品を読んだのはそれ程多くは無く、今回この「1Q84」を手に取るのは数年振りのことであり、以前の記憶では最初の数頁を読んで、単調な、というか刺激的でない文体に興味がのめることもなく、いつの間にか途中放棄する形で終わっていたが、今回のこの「1A84」は最初からAtructiveであり、頁を繰るのに忙しかった。
 
土日、快晴であったら高尾を縦走する予定でいたが、天候予報では一時崩れる予想であり、現実に日曜日は朝からしとしと雨になったが、丁度山行をキャンセルし、土日の二日間をかけ、この著作に当てることにした。
 
「青豆」と「天吾」、変わった名前の主人公二人が交互に章を交代して物語は進んで行くが、早い段階で「ふかえり」、深田エリと言う識字障碍、デクシアの17歳の少女が登場し、「空気さなぎ」という小説を軸に物語は展開し、その新人文学賞応募作品の中に「リトル・ピープル」という「ふかえり」に言わせれば実態のある妖精のようなものが登場し、ストーリーが進行していった。
 
題名の「1Q84」とは「1984」の反語であり、「青豆」が今生きている世界が現在の「1984年」ではないのではないか、過去から連綿と続く時間概念が、いつかの時点で断ち切られ、別の二重世界に生きているのではないか、現に、月が2個並んで夜空に浮かんでいるこの実態は、到底「1984年」ではあり得ず、パラレルの「1984年」で、いつか失われてしまった「1984年」と区別する為、今は「1Q84年」と、彼女により名付けられたものである。
 
この「1984年」は作者にとって象徴的な年号であり、イギリス人作家ジョージ・オーウエルの近未来小説の題名「1984年」から採られたものであり、その小説の中では「ビッグ・ブラザー」との名前でスターリンが登場し、共産主義万能、歴史の変更、改竄、個人の喪失、無感情、無感動、「ビッグ・ブラザー」への絶対忠誠、等々、近未来の暗い社会を描いたものであった。
 
この「1Q84」では、オーウエルの「1984」に登場する「ビッグ・ブラザー」に対比する形で「リトル・ピープル」を登場させているが、昨日読み終えた第1巻には、その「リトル・ピープル」との呼称だけで、現実には小説の中には一カ所の夢想的情景を除いては、登場してこなかった。
 
554頁からなる大部の著作で、これで完結するかと思って、土日を返上して読み進めて行ったものだが、実は、これはまだ第1巻に過ぎず、この後、第2巻、第3巻が続くことは、漸く最終近くの頁に至って、理解し得たものであった。
 
確かに大部ではあるが、「青豆」と「天吾」という二つのキャラクターが実は小学校時代の市川市で一緒のクラスにいて、その4年生時、10歳の時から、「青豆」は「天吾」を思い続け、現在30歳になるのであるが、ある一人の10歳の少女、「つばさ」と言うが、新興宗教の施設から逃げ出した自分の名前も言えない少女の救出を通じ、接点が近付く段階で、第1巻は終了した。
 
「ふかえり」もその宗教施設の中で両親と一緒に生活していたが、矢張り10歳時にそこから逃げ出し、奥多摩、二俣尾にある高名な社会学者の家に逃げ込んだのであるが、施設内に残っている両親とは音信不通の状態が続いているのであった。
 
物語の全体は架空のものであるが、一つ一つのプロットが面白く、洗練されたサスペンスを読んでいるような感覚で、次の展開に興味が湧き、土曜日などは午前の2時過ぎまで読み進めて行ったのだが、村上の筆力と言えるものがあった。
 
文章も推敲され、洗練され、筋書きも興味があり、新興宗教の中の共同生活という現実的なテーマもあり、又、女性弱者に対するtiranyである男性の非合法的な抹殺、本の中では「移動」と表現しているが、そうした社会性を帯びた情景もあり、読者を飽きさせない。
 
これから又直ぐにも第2巻、第3巻を読み進めて行くが、全体を読み終えた後に、自身の個人的な読後感を纏めてみたい。少なくともこの第1巻を読む限り、村上がノーベル賞にノミネートされるのは当然のことであり、遅かれ早かれ、受賞するであろう、確信を得た。
 
当方と同年。この本は日本語で書かれてはいるが、内容的には人間の普遍的な問題を扱っていて、漸くこうしたコスモポリタンに通用する日本人を越えた作家が生まれてきた、との感を強くした。
 
 
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