ちゃおチャオブログ

日々の連続

村上春樹1Q84第3巻を読む。二流のサスペンス。

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村上春樹の1Q84は合計で三部作となっていて、最初に読み始めた時は、こんな大作とは夢にも思っていなかった。一巻目は文体も内容も中々興味を引くものがあり、続いて第二部、第三部と先に読み進みたくなる刺激性もあった。であるから、第一部はほぼ3日以内に読み終えたが、第二部に入ってから、第一部に於いて示唆していた幾つかのサスペンス,或いはベールに包まれた銀幕の裏側が見えて来るに従って、その刺激性は薄れ、かなり陳腐なものになってきた。最初の出足の衝撃、新奇性はかなり薄まったものになり、何か1部の惰性で物語が作られているかの感もあった。
 
 
500頁近くの第2部を読み終え、読む側も惰性のごとく、或いは行きがかり上第3部を読み始めたが、これは又今までにも増して602頁からの大作であった。が、しかしその頁数ほど中身の濃い物ではなかった。
 
思わせぶりな文体で、色々新奇を衒う二つの月、リトルピープル、登場人物の死亡、殺人等がストーリー展開しているが、その内容は文学的芸術性、哲学、豊かなロマンスも無ければ、想像を掻き立てる何物もない、陳腐な2級のサスペンスとなっている。しかもそのサスペンスは全てを種明かしせずに、そのまま放置されていて、一体天吾の愛人がどうなったのか、青豆の遊び友達の警察官が誰にどうされたのか、麻布の老婦人のその後、天吾と青豆の二人のその後、等々、物語は殆ど未完のままで終了し、サスペンスとしては2級以下の出来栄えかも知れない。
 
こうしたただ長いだけの内容の長編小説が、世界の名だたるノーベル文学作品と伍していくには程遠いもので、前回ノーベル文学書をもらえなかったのはやむを得ないというか、ある程度本人も自覚していたことかも知れない。
 
この後、つい最近新たな一冊、「色彩を持たない多崎つくる・・云々」と言う、如何にも意表を突いた長ったらしい題名の、世の村上フアンが直ぐにも飛びつきたくなりそうな新冊を出版しているが、予想通りこれも又売り上げはトップを走っているようである。
 
熱烈なフアンが直ぐに飛びつくのは良いとしても、問題は中身だ。内容だ。前作を越える厚みがあって、内容の濃いものであれば、ノーベル賞受賞も可能と思うが、前作のレベルの延長線上にあるような内容であれば、ここ暫らく、当分の受賞は諦めた方が良いかも知れない。
当方も機会があれば、「多崎つくる、巡礼の旅」も読んでみよう。
 
 
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