ちゃおチャオブログ

日々の連続

補陀落渡海への旅(70)東沙古漁鎮。

大通りを更に進み海岸に向かう。
イメージ 1
 
 
昔の倉庫のような建物もリニューアルされている。
イメージ 2
 
 
この町では全体に新しい街造りが行われている。
イメージ 3
 
 
路地にも貧しさは感じられない。
イメージ 4
 
 
ああ、何か記念碑もある。
イメージ 5
 
 
海のゲート。
イメージ 6
 
 
 
この岱山島の東の端は「東沙」という集落になっているが、ここは「東沙古鎮」と呼ばれたり、間に「漁」が入って「古漁鎮」と呼ばれたりもしている。古くは「東沙古漁鎮」と呼ばれていたと思われるが、今は、間を縮めて「東沙古鎮」と呼ばれているようだ。

その名前は「古鎮」と言っても、ここ十数年の経済発展で、町全体がリニューアルされている感じの通りを進んで行くと、海岸線に出る。太平洋、というか、ここでは東シナ海だ。ここから一番近い陸地は九州の五島列島であり、沖縄列島のいずれかの島だろう。

メインの大通りが尽きると、住宅地の小路になり、それを抜け出た先に急に開けた海が目の前に広がり、中国人らしく、それを祝うかのように、コンクリートの大きなゲートが立っていて、観光客を歓迎している。そのゲート、石門はどことなく日本の神社のコンクリート製の鳥居に似てなくもないが、そこには観光客など誰一人とおらず、ただ薄灰色の海が茫洋と広がっているようだ。

この海岸も昔は活発な漁業がおこなわれたいたかも知れない。しかし、ここで見る限り漁港のようなものは無く、従って漁船の影も見えない。海岸は干拓され、養殖用の大きな池が広がっている。いや、塩田かも知れないが。遠くに一人二人の人影を見る程度で、今の季節、ただ放置して置いてあるのかも知れない。これから養殖事業が始まるのか、既に事業が失敗して放置状態に置かれているのか・・、日本の過疎地の干拓事業を見ている思いもした。

崖の上には砲台の跡が残っている。小さな大砲か機関銃、トーチカのようだ。こんな場所にこの様な砲台が置かれているのも奇妙なことだが、それは戦国期の倭寇の頃からこの場所に作られていたのかも知れない。その後の欧米列強の開国騒動。この崖の上で、この砲台は、そうした異狄に睨みをきかせていたいたのだろう。丁度お台場や観音崎のように、今は風化してしまっているが・・。
 
 
 
海に向かって立つ鳥居のようだ。
イメージ 7
 
 
東沙古漁鎮と書いてある。
イメージ 8
 
 
この「古漁鎮」の案内板。
イメージ 9
 
 
広大な養殖池。ここから日本にも輸出されているかも知れない。
イメージ 10

イメージ 11
 
 
 
養殖池の突堤に立つ像。
イメージ 12
 
イメージ 13
 
 
崖の上には砲台もある。何時の頃からのものだろう。倭寇の時代にも活躍していたのか・・・
イメージ 14