秩父札所巡礼マップ。これから今日の最後、西光寺へ向かう。
今日の阪急交通社、バスの車内の模様。
真言宗のお寺、西光寺にやってきた。
山門を入ると、かなりの参詣客で混んでいる。
ああ、境内の枝垂れはほぼ満開だ。
前のグループの団参を待つ。
うーん、ここも由緒がありそうだ。
さて定林寺を後にして、バスに乗って向かったのは今日の七ケ寺訪問の最後の霊場、第十六番「無量山西光寺」である。このお寺は荒川にかかる大きな吊橋の付け根辺りにあり、西日の良く当たる西方浄土のお寺である。丁度午後の太陽が西に傾きつつある時刻、この時間を狙ってか、広い境内には大勢の団体客が参詣に訪れている。皆、どこのツアーも、今日1日のお札巡りの最後をこの寺にしているようだ。
前の団参さんが心経を唱和するのを待って、次に我々の順番になる。この寺は四十四ケ寺の中にでは珍しく、真言宗のお寺だ。だから本堂脇には四国八十八ケ寺の廻廊堂が作られている。前の団参は勤行が済むとそろってその廻廊堂に入って行った。その間、我々グループは、本堂の濡れ縁で墨絵を描いている絵師の話と二筆の墨絵を眺める。弘法大師の五筆とまでは行かないが、両手に持った二本の筆で上手に描く。
その内、和同開珎の銅貨を持ち出し、皆に巡回させてくれる。和同開珎、中学か高校の頃の歴史で習ったが、日本で最初のコイン、銅貨だ。和同年間にここ秩父で銅が産出され、唐の穴開き銭を参考に鋳造されたものだが、この銅貨とは別に、和銅年間には都が以前の藤原京から奈良の都、平城京へ遷都した記念の年号でもあった。以前は「わどうかいほう」と読まれ、確か、学校でもそう教わったが、現在では「わどうかいちん」と読むのが主流のようである。問題のこの「珎」が「珍」の略字なのか「寶」の略字なのかの解釈によるものだが、当方に取っては昔から言い習わされている「わどうかいほう」の方が語感も良いし馴染みあるように思えた。
さてそうこうする内、前のグループも廻廊堂から出ていき、次に我々の版となる。八十八ケ寺の内の十数ケ寺は何らかの機会に参詣しているが、今こうして見ていると、国分寺の数が多い。聖武天皇の頃、全国各地に官寺、国分寺を建立したので、四国も各地に国分寺が出来たが、その殆どが今や弘法大師ゆかりの真言霊場になっているようだ。秩父三十四ケ寺の中で、多くはご本尊を聖観音としているが、この寺では千手観音菩薩がご本尊となっていた。「おん ばさら たまら きりく」。
前の団参さんが心経を唱和するのを待って、次に我々の順番になる。この寺は四十四ケ寺の中にでは珍しく、真言宗のお寺だ。だから本堂脇には四国八十八ケ寺の廻廊堂が作られている。前の団参は勤行が済むとそろってその廻廊堂に入って行った。その間、我々グループは、本堂の濡れ縁で墨絵を描いている絵師の話と二筆の墨絵を眺める。弘法大師の五筆とまでは行かないが、両手に持った二本の筆で上手に描く。
その内、和同開珎の銅貨を持ち出し、皆に巡回させてくれる。和同開珎、中学か高校の頃の歴史で習ったが、日本で最初のコイン、銅貨だ。和同年間にここ秩父で銅が産出され、唐の穴開き銭を参考に鋳造されたものだが、この銅貨とは別に、和銅年間には都が以前の藤原京から奈良の都、平城京へ遷都した記念の年号でもあった。以前は「わどうかいほう」と読まれ、確か、学校でもそう教わったが、現在では「わどうかいちん」と読むのが主流のようである。問題のこの「珎」が「珍」の略字なのか「寶」の略字なのかの解釈によるものだが、当方に取っては昔から言い習わされている「わどうかいほう」の方が語感も良いし馴染みあるように思えた。
さてそうこうする内、前のグループも廻廊堂から出ていき、次に我々の版となる。八十八ケ寺の内の十数ケ寺は何らかの機会に参詣しているが、今こうして見ていると、国分寺の数が多い。聖武天皇の頃、全国各地に官寺、国分寺を建立したので、四国も各地に国分寺が出来たが、その殆どが今や弘法大師ゆかりの真言霊場になっているようだ。秩父三十四ケ寺の中で、多くはご本尊を聖観音としているが、この寺では千手観音菩薩がご本尊となっていた。「おん ばさら たまら きりく」。
境内に咲くマンサク。
マニコロ(転経器)を回す参詣者。
この寺には四国霊場を回る廻廊堂が備わっている。
前のグループが廻廊堂に入っている間、寺僧の話と墨絵の実演を見る。
毎日やっているのか、日本の筆を使って、上手に描くものだ。
イミテーションの和同開珎を見せてもらう。
この寺に別れを告げる。
山門を出たら、又次のグループがやって来た。