ちゃおチャオブログ

日々の連続

ラオス北部紀行(37)ジャール平原の「ジャール」の意味。

これからジャール平原第1サイトの丘に向かう。
 
 
 
奇妙な形をした大きな石がゴロゴロしている。
 
 
 
ああ、外人の観光客も来ている。初めて会った。
 
 
 
この辺が第1サイトの丘の上だ。
 
 
 
ああ、ジャールとは「Jar」、壺のこと。これは古代の石棺だったのだ。
 
 
 
ジャールの前での記念撮影。高原の土地で気温も低く、長そでを着てきた。
 
 
 
 
 
ここへ来るまで、ジャール平原の正確な意味は理解していなかった。それは単なる土地の呼称で、ラオス語の何等かの意味があるのか、或いはここを植民地として支配していたフランス人が勝手に名づけた地名かと思っていた。今日ガイドの説明により、「ジャール平原のジャール」とは即ち英語の「Jar」、日本では魔法瓶などに使われる「ジャー」、「壺」のことで、「Jar=ジャー」は英語読みだが、それをフランス語の発音にすると「ジャール」になる、とのことだった。

そうした説明のさ中に見せられたのは、夥しい数の石の壺で、なだらかに起伏する斜面に重なって並んでいたり、一列状に列を作ったりと、平原をパッと見た限りでも、数百の単位を越え、千の単位はあろうかと思われた。そうして、次に説明を受けたのは、この石壺は元々はここに住んでいた古代民族の「石棺」で、死後のお墓としてここに葬られたとのことである。

地面に大きな穴ぼこがあちこち残っているが、これは米軍の爆撃機による爆弾投下の跡で、ラオス内戦時、民族戦線(パテトラオのこと)のゲリラがこの石壺の中に逃げ込み、それを米軍が空から叩いた、との説明だった。そうすると、その爆撃機は昨日見たバンビエンの飛行場跡から飛び立ったものに違いない。爆弾の跡は風化により既に穴ぼこの周辺は崩れているが、その大きさから言っても、1トン爆弾以上の相当威力のあるものに思えた。

数年前、カンボジアの奥地、クメール文明の初期の頃、6-9世紀の遺跡群があるジャングルの中でも同じ様な光景を見たのを思い出した。あそこでも、民族戦線、クメールルージュが古代のサンボー遺跡の中に逃げ込み、それを米軍爆撃機が空から叩いたのだ。その時の爆撃機は、タイのウドンタニやコンケーンから出撃していた。(「写真の無いブログ」悲しみのカンボジア(14)サンボー遺跡。
http://4travel.jp/travelogue/10308398参照)

歴史は繰り返す。相当高度な文明を作り上げたクメール・サンボーも何等かの事情で打ち捨てられ廃墟となり、ここジャールでも、これだけ多数の石棺を作り上げた古代種族も何等かの事情で離散し、元の平原に戻ったが、ここ近年、恰好の隠れ場として脚光を浴び、再び攻撃され、又元の廃墟に戻ってしまった。陽光の降り注ぐ波打つ平原を眺め、人間の繰り返される営為を思った。
 
 
 
 
遥かに見えるジャール平原の岡の波。
 
 
 
ここにはこんな大きな爆弾の跡がある。
 
 
 
なだらかな大地で、北海道の高原を見ているようだ。
 
 
 
あれ、水辺で遊んでいるのは、水牛か??
 
 
 
稲刈りの終えた後の田んぼを牛が放牧されている。かなり痩せているが・・
 
 
 
このバイクに乗って、第1~第3サイトを回った。