ちゃおチャオブログ

日々の連続

ラオス北部紀行(38)ジャール平原「第2サイト」へ。

これからジャール平原の中の第1サイトから第2サイトへ向かう。
 
 
 
前方の丘の斜面に白い建物が見える。
 
 
 
ああ、これは家ではなく、お墓だ!
 
 
 
真っ白のお墓。同じような光景はミャンマーでも見た。死後の平安を願う気持ち。
 
 
 
ああ、第2サイトの「Jar」が見えてきた。
 
 
 
ああ、これは又巨大な石棺だ。
 
 
 
凄い数の石棺が立ち並んでいる。
 
 
 
 
 
ジャール平原は広大な盆地状の高原地で、その広さは甲府盆地奈良盆地よりも広いだろう。海抜の高い山中にあり、朝夕の冷えは厳しい。京都の真冬の底冷え程はないとしても、年末の冬の季節、当地でも当然冬の気候であり、人々は冬の衣服を纏って、寒さを凌いでいる。当方も東南アジアの旅行では長袖など着たことは無いのだが、この土地では、半袖では流石に肌寒い。夕方には又綿のジャンパーを買うことにした。

人の名前とか、場所の特徴、何を食べた等のメモ書きをどこかに無くしてしまい、今日バイクで案内してくれているGHの若経営者の名前も覚えていないが、この広大な盆地の中には、「ジャール」の遺跡が3か所に分かれていて、それぞれ第1サイト、第2サイト、第3サイトと区分されていて、これ等「ジャール」が作られた年代や、種族も異なっているようである。

先刻見たのは第1サイトで、ポーンサワンの町からは一番近い場所にあり、旅行日程の忙しい人はこの第1だけを見て帰ってしまう人もいるようだが、当方はこれから第2サイト、第3サイトと、順繰りに案内してもらうことにしている。舗装されていない田舎の道を、バイクの後部座席でバウンドしながら進んでいくが、前方に現代のお墓、「Tomb」が見える。「Jar」ではない。西日を受ける斜面に真っ白な大理石か漆喰、コンクリでできたお墓が並んでいる。この町の名士、銘家、お金持ちの家柄なのだろう。

いつの時代も死後の栄誉、死後の安泰を願う。1700年前の人間も現代人も、その思いは同じだ。功なり名遂げた人々は、立派なお墓に納まり、人生を全うし、死後の天上世界に平安を求めている。

この立派に作られた現代のお墓を通り過ぎると間もなく、第2サイトだ。ここは先刻の第1サイトよりも更に多くの「Jar」が転がっていて、又、その石も巨大だ。この土地には巨石はなく、はるか先の山の麓から巨石を切り出し、数十キロの道のりをここまで運び、死後の安住の場所を作った。期限2-3世紀の頃のことだ。まだ仏教が漸進する以前の、古代種族の送葬儀式だ。今はその種族はここには住んでいない。1700年も以前にどこかに消えて行ってしまった。今、その巨石を撫で、古代人を思った。
 
 
 
 
ああ、石棺の蓋まで装飾されて作られている。
 
 
 
ここもまたジャール平原の穏やかな起伏が続く。
 
 
 
辻政信はこの光景を見て、どう感じただろうか・・。
 
 
 
第2サイトをバックに。
 
 
 
GHオーナーの案内人。
 
 
 
名前を控えた紙を無くして、名前が分からない!
 
 
 
二人での記念写真。