ちゃおチャオブログ

日々の連続

相模国分寺跡を往く。(3)史跡「相模国分寺」。

現、相模国分寺の丘を下り、もう一つの丘、国分寺跡地に向かう。
 
 
 
広大な緑の敷地の角に「相模国分寺跡」の案内が出ていた。
 
 
 
 
 
ああ、これは広々とした緑地公園だ。
 
 
 
ああ、前方に基壇のようなものが見える。
 
 
 
ああ、ここは「廻廊」跡だ。廻廊まで備わっていたのか!
 
 
 
廻廊の跡が、この広大な敷地をぐるっと回っている。
 
 
 
 
 
これから、現代の「相模国分寺」から奈良時代に創建された元祖「国分寺」を訪ねることにする。丘陵状の台地状の土地を斜めに横切るように北に向かう。と言っても、今は周辺は全て個人住宅が建て込んでいるので、丘陵状も台地状も歩いている限りでは分からないが。

相模国分寺から先刻の大欅まで戻り、切り通しの県道を横断して2-3分歩くと、右前方にぽっかり緑の空間が見えてくる。事前の知識がないと、ここは芝生に覆われた運動公園か、緑地公園として通り過ぎてしまうかも知れない。ただ広々とした緑の原っぱだ。住宅が密集した中にあって、これだけの空間は贅沢だ。

近づいてみると、その広場の角に「相模国分寺跡」との立札が立っている。ああ、ここがそうだったのか・・。聞きしに勝る広大な敷地だ。当方、武蔵国分寺のあった国分寺市の隣町、小金井市に住んでいて、武蔵国分寺は時々その前を通ったりしているが、そこよりは遥かに大きな面積だ。う~ん、当時は相模の方が武蔵よりも強大で、お金持ちだったのか・・。

跡地のやや手前の方に、高さ1m程の正方形の大きな基壇が残っている。基壇の上に上る。ほぼ15m四方程の正方形の中に、建物を支えた礎石が配列されている。創建当時の礎石だ。大きさも厚さもバラバラだ。東大寺や後世の官寺にあるような、加工されて真ん中に凹みが作られた礎石ではない。自然石のようだ。近くの相模川から運んできたものだろうか・・。史実によればこの上に七重の塔が建っていた、とのことである。

基壇に上り、礎石に触り、1300年前の天平の時代のロマンを感じた。
 
「子供等の 基壇に遊ぶ 夏の雲」
 
 
 
 
うーん、この基壇の上には、この様な七重の塔が建っていたのか・・。
 
 
 
基壇の上に上ると、創建当時の礎石が並んで置かれていた。
 
 
 
10数個の礎石は殆ど加工されていない自然石のようだ。
 
 
 
 
うーん、それにしても広大な敷地だ。
 
 
 
 
嘗てここにはこんな立派な塔が建っていた・・。この写真を見ていて、以前訪問した防府の七重塔、確か現存する聖武天皇時代の国分寺の唯一の塔で、国宝にもなっていたと思うが、あの如何にもほっそりとした、いつ倒れても不思議のないような危なっかし姿の塔を思い出した。
 
 
 
1300年前の天平のロマンは今に生きていた。