ちゃおチャオブログ

日々の連続

ボロブドールへの3日間(14)ボロブドールに集うモスレムの人々。

モスレム教徒は、ストーバにはお参りしない。
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当方も下山する前に1枚写真を撮る。
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インドネシアの人々は、大体がグループで来ている。
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穏やかな人々だ。
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天頂の周辺には、多くのインドネシア人がいる。
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「モハメッド像を見たことはありますか?」と聞かれ、「見たことがある。」と答える人はいないと思う。それは日本人に限らず、モスレムの人々にとっても、同じ答えになるだろう。実に、イスラム教では偶像崇拝が否定され、そうした聖者や神々の彫像は製作されていない。即ち、宗教上のモハメッド像は存在しないのである。

天頂に立つストーバ内にはお釈迦様が安置されているが、ここまでやって来たインドネシア人は誰一人そのストーバに向かって両手を合わす人はいない。いや、インドネシア人に限らず、ここへやって来た白人も同じだ。彼等は彼等の信奉するキリスト教があり、仏教徒の崇めるお釈迦様など、彼等の信仰とは関係ないのだ。では何故白人なりインドネシア人が、かなり辺鄙なこの場所までやってきて、この高い石段を登ってきたのか? それは歴史に対する興味本位でしかない。それはエジプトのピラミッド、アンコールワット万里の長城を見に行くことと同じことだ。過去の偉大な歴史に対する憧憬とそれを見てみたいとする欲望の故にのことだ。

当方が今ストーバに両手を合わせ、この天壇を下り降りるのは、それは単に仏教徒だからそうしただけのことであって、強い信仰の元に合掌したのではない。単に習慣としてやっただけのことで、それは、何もしないで、ただストーバを眺め、周辺の景色を眺めているインドネシアの人々とさして変わらない。元より何か強い宗教上の理由でここまでやって来た訳ではなかった。

天壇の周辺には多くのインドネシア人がいる。殆どがグループで来ていて、数人の小人数から10数人の大きなグループまで様々だ。一様に穏やかで温厚で、笑みもこぼれている。異教徒の史跡に来たという敵対的なものはない。元々インドネシア人は温厚な国民なのだ。気候風土に厳しさは無く、食料となる物も豊富だ。争いの無い国民性である。彼等、彼女等の朗らかな姿を写真に撮り、下山することとした。
 
 
 
 
子供達も屈託がない。
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人々は温厚で、大人しい。
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モスレムの大多数は争いの無い人々だ。
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ストーバの中を覗いて見よう。
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暗い中に石仏が座していた。
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