ちゃおチャオブログ

日々の連続

ボロブドールへの3日間(38)バタビア総督広場周辺の賑わい。

この国では電力がまだ十分でなく、ライトアップも華々しくはない。
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バタビア時代の大砲なども飾られている。
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照明の少ない薄暗い中で、人々のざわめきだけが響いてくる。
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と、突然英語を勉強しているという学生から話しかけられる。
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幾つかの質問を英語で答え、最後に記念写真をお願いする。
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17世紀初頭、徳川3代将軍家光は伴天連追放令に引き続き、日本人の海外渡航、貿易、交易等を禁じ、日本を鎖国した。貿易に関しては、唯一の例外は隣国中国の清と当時スペインから独立したばかりの新教国オランダの2カ国のみ、長崎への寄港を許可したのだった。鎖国以前の日本人は、アジアに於ける強力な海洋民族、貿易国で、アジアの人々からは尊敬されていた。そうした一人にタイ・アユタヤ王国で国王、宰相に次ぐぷプラヤーまで上り詰めた山田長政がいたり、フィリピン・ルソンを中心に大活躍した呂宋助左衛門などがいた。

当時フィリピンは既にスペインの領土になっていて、ここジャワもスペインから独立したオランダ領、蘭領東印度。通称、「バタビア」と呼ばれてた。ここにも又、日本の御朱印船やら貿易船、或は人買い船なども来ていたに違いない。日本人娼婦町のあったサンダカンはジャワ島の直ぐ北にあるボルネオ島の賑やかな港町だった。日本人の貿易商、乗組員なども望郷の思いで娼婦たちとひと時を過ごしていたに違いない。

日本ーオランダーインドネシア。400年以上も前から目に見えぬ形で結ばれていた。ジャワ総督が将軍家に像を献上したのはいつのことだったのか・・。幕末になってDickenkirkが日本海軍の基礎を作った。第2次大戦中には日本軍がオランダを駆逐して、一時軍政を敷いた。その後、日本の敗戦後には残留日本兵がオランダからのこの国の独立を助けた。平成の今、天皇家の最も親しい王族はオランダ王家である。先のベアトリーチェ前王妃薨去の際には、美智子妃がトンボ帰りにも拘わらず葬儀に参列した。雅子妃のオランダ王族からの精神的援助は計り知れないものがある。

昨秋のインドネシア総選挙で大統領が変わり、日本の大規模開発援助が一部見直しされているが、ほぼ1世紀に渡る日本とインドネシアとの関係、400年以上も続く日本とオランダとの関係、こうした長い間に培われた関係を考えれば、この3か国の関係は一朝一夕に崩れ去るものではない。

夜の広場に続々と集って来ている人々を眺め、縁石に腰を下ろしビールを飲んでいると、突然女学生の数人が寄って来て英語で話しかけてくる。彼女達は、当方が外人(日本人)と見て取ったか、英会話の実地練習として、目星を付けたようだ。学校で教えられた中々流暢な英語で、型にはまった質問をしてくる。「インドネシアに何の目的で来たのか? どこが一番良かったか? 食べ物はどうだったか?」等々。当方の下手くそな英語で彼女達に如何程役に立ったかは分からないが、記念の写真をお願いした処、快く応じてくれた。

それを潮にこの広場に続くナイトマーケットをそぞろ歩き、更にその先の倉庫街を通り抜けた所に、古い運河沿いにテント食堂がずらりと並んでいて、その内の1軒に入り、今晩の夕食とする。バタビア時代、沖の湊から小舟に積み替えこの運河を通って、今でも残っている倉庫街まで荷物を運んで来たであろう運河も、今は、ヘドロがたまるような悪臭も放っているが、それでも人々は、川べりに集まり、夕食を楽しんでいる。お酒を飲まない民だから、カラっとした明るさがあるようだ。今、一人になって、あの時の女学生を呼べばよかった、と残念がっても後の祭りではあったが・・。



広場のざわめきから離れ、その先にあるナイトマーケットに向かう。
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商売だけあって、こちらの方が煌々とした灯りの中で営業している。
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観光客相手の土産と言うか、生活雑貨が主のようだ。これもバタビア時代から続いているフリーマーケットの延長か・・
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更にその先の淀んだ運河沿いには、テント屋台がずらっと並んでいて、多くの人が夕涼みをしている。
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ここで夕食を食べ、ホテルに戻ることにした。
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