ちゃおチャオブログ

日々の連続

ボロブドールへの3日間(46)オランダ「跳ね橋」。

オランダ跳ね橋が近づいてきた。
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ああ、「跳ね橋」にやってきた。
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説明書きがある。うーん、最初の橋は1628年築か。当時は、「Engles Brug」=「英国橋」と呼ばれていたんだ・・。ロンドンブリッジのミニチュア版として作られたのか・・
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江戸時代の初め、日本の商人もこの橋を見たのだろうか・・
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「ブサール運河」(Kali Besar)、「大運河」という意味だが、それ程大きくはない・・
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オランダと聞いて直ぐに思い付くのはチューリップ畑と運河と運河に掛かる跳ね橋。ゴッホの跳ね橋は有名だ。後、オランダと言ったら「Dutch Account」と言われるくらいにけち臭い人種、いや、しっかり人種。西洋列強の中にあって、質実剛健でなければ国が持たなかったのだろう。

前世紀の植民地政策で英仏が良く比較される。英国は植民地から搾取するだけだとか、フランスは文化を植え付けたとか。他のドイツやベルギー、オランダの政策はどうだったろうか・・。難しいことを考えてもしょうがない。植民地自体が前世紀の遺物で、今のこの地球上では国家間の差別被差別の国家はなにだから。

オランダが300年の統治の中でこの国にどんなものを残したかは知らない。今のインドネシア人でオランダ語を理解できる人は僅少だろう。少なくとも英語理解能力者の方が比較にならないほど勝っているだろう。旧宗主国との縁が薄れて行くのは、何もオランダに限ったことではない。英国以外の他の植民地国は皆似たようなものだ。英国だけはCommonwealth,英連邦のメンバーとしてしっかり宗主国の座を守っている。英経済が落ちたりとは言え、シリングは尚ドルに次ぐ世界の決済通貨の地位にある。

今、目の前に「跳ね橋」がある。オランダがインドネシアに残した物と言ったら、この「跳ね橋」位しかない、と言ったら、如何にも侘しい限りだが、しかし、オランダを象徴するものだった。プレートを見ると1628年に建設とあるから、統治が始まって初期の頃だ。この運河が活発に利用されていた頃だろう。現在はこの橋の隣に幅広の国道が走ったり、鉄道の線路が出来たりして、この運河を通る船もなく、「跳ね橋」は既に固定され、持ち上がることはないが、嘗ては大型船が通過するたびに跳ね上がった橋脚は人々の目を引いたであろう。丁度天橋立に架かる回転橋が、船が通過する度に回転するように。

橋の中央に立ち、コタ駅方向を眺める。高層ビルが何棟も見える。日本と同じ地震国ではあるが、経済の高まりと共に、街の高層化も進んでいくのだろう。そうこの国には石油資源があった。ロイヤルダッチシェルは世界のMajorだし、この国の石油成金は、イタリア名門サッカーチームを莫大な金額で買収し、オーナーに収まっている。日本の大金持ちでも出来ないような荒業をこの国の金持ちはやっている。世界人口第4位の大国は、これからも更に発展し続けるだろう。10年後、もう一度この橋の中央からジャカルタの街並を眺めてみたいものだ。




ああ、先刻の「ホテル・リビエラ」だ。
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コタ地区の中心部が見える。この場所から10年後も見てみたいものだ。
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現在の橋は1980年代に改装されている・・。
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橋を往復し、植民地時代を想像した。
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橋の近くの食堂でお昼とする。
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