ちゃおチャオブログ

日々の連続

ルソン山紀行(19)キアンガンの山下大将。

キアンガン村に入って直ぐの場所に小学校がある。山下敗走軍はここまで逃げ延びて来たのか・・
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どこかの国の援助で建てられたに違いない、綺麗な校舎だ。子供達が遊んでいる。
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子供達はどこの国でも素直で純真だ。・・子供達に山下将軍のことを聞いても無理だろう・・
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草取りをしている人に聞いたら、この建物がそうだという。
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今は綺麗に再建されているようだが、ここが山下司令部の跡だったのか・・
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今年の8月で敗戦から70年。戦後生まれが多数を占める今の日本人にとって、陸軍大将山下奉文のことをどれ程知っているであろうか。殆どの日本人にとっては、太平洋戦争勃発時のシンガポール攻略戦で、シンガポール・フォードモータースの会議室で、相手のイギリス人守備隊司令官、パーシバル中将に対し、降伏するか否か、「Yes or No!」の二者択一を迫り、僅かな期間でシンガポールを落とし、直後に市名を昭南市に変更し、且つ本人は「マレーの虎」と呼ばれるようになった事位だろう。

その後の動静について、殆どの日本人は知っていなかったが、昭和30年、40年代になってテレビが各家庭に普及するようになると、色々な報道番組、探報番組、お宝探しなどのバラエテイ番組が視聴率を上げ、そんな中の一つに「山下財宝」なるものも画面を賑わすようになった。太平洋戦争末期、山下将軍が米軍の攻撃を逃れようと、隷下の部隊をルソン島北部の山間部に退避させ、その際、莫大な財宝も一緒に運んで行ったが、敗戦濃厚となり、これ以上の継戦が無理となった段階で、山中のどこかに埋蔵した、というのが財宝探しの番組で、彼に再び脚光が当てられることになった。この時、多くの日本人は、彼がルソン山中で降伏し、捕えられ、マニラの極東軍事裁判所で死刑判決を受け、その後、モンテンルンパの刑場で絞首刑になったことを知ったのであった。

敗戦とはそういうことで、「マレーの虎」の異名を付けられた緒戦の英雄も、負けてしまえば賊軍で、捕えられ、鎖に繋がれ、刑場の露となるのだ。その山下が、降伏するまでの数か月を過ごした集落がイフガオ州の山中にあるキアンガン村(Kiangan)で、今これからその集落に向かう。キアンガン川に架かる大きな橋を渡り、右手の坂道を5-6キロ登った先にその集落は今でもそこにあった。200世帯もないような小さな集落で、70年前とそれ程変わらないのだろう。

その集落の入り口近くに小奇麗な小学校がある。どこかの国の援助で建てられたに違いない現代的の校舎だが、ここが山下敗走軍団がマニラから遥々山を越えてやってきて、一時的に退避した場所だ。今は大きな校庭のグラウンドとなっている。戦争の傷跡はどこにも感じさせない。校庭に入ると今日は学校は休みなのか、子供達が校舎の端の方で遊んでいる。日本にもあるどこでも変わらない田舎の光景だ。子供は平和の象徴。戦争の悲惨さや貧しさを全く感じさせない。

一体この校庭のどこに山下軍団の足跡があるのか・・。探しても分からない。校庭の隅で草取りをしている初老の人に聞くと、あそこだ、と指さした先に、小さな建物がある。職員室のような感じの建物だ。行ってみるとドアは閉まって中には入れない。・・ああ、ここが降伏に署名した会談場所だったのか・・。入口に掲げられた銅版のプレートを見ると、山から下りて来た将軍はここで米軍部隊長に降伏し、直ぐにバギオに運ばれ、翌日正式に降伏文書に署名した、と記載されていた。建物の後ろを見ると、直ぐに林が迫ってきていて、軍団はてんでんばらばらにこの林の中に逃げ込んで行ったのか・・。時に1945年9月2日。敗戦から2週間以上も経っていた。彼の意地が感じられた。マニラからの敗走の半年間、更には終戦からの17日間、彼の意地の結果、どれ程多くの将兵が野辺の屍となったのか・・。

ここから更に数百m上がった先に見晴らしの良い高台があり、史跡公園となっている。日比両国政府の協力により建設された平和公園だ。中央に平和の塔が建っていて、そこから眼下を流れる川の谷底を眺める。・・ああ、この景色、四国山中、大歩危小歩危を越えた更にその先にある大豊町の国宝・薬師堂から眺める景色と同じではないか!眼下に段々畑が広がり、その一番下を吉野川が流れている。この場所に来て気が付いた。彼は大豊町の出身だと。

20数年前、平家落人の祖谷に行った帰り、この谷底のような町に立ち寄ったのだが、それは、終戦直後の夏のある日、まだ18歳の美空ひばりが四国巡業中台風の土砂崩れで、乗っていた巡業車が吉野の谷底に転落し、九死に一生を得たが、それはこの村の天然記念物、杉の大杉のご加護のお蔭だったと信じ、その後毎年この大杉に感謝のお礼に来ていた、とのことで、その四国一の大杉を見る為だった。それと、もう一つ、この村には四国で一番古い木造建造物、国宝の薬師堂があることで、多過ぎから約30分、段々畑の中を通り、高台に建つ薬師堂にお参りしたが、この時、山下大将がこの集落の出身者だと知った。

それから20数年、この平和記念塔から眺める眼下の景色を眺め、殆ど即座に彼の出身地大豊町の景色を想起した。そうか、そうだったのか、彼はマニラから遥々この地まで逃げて来て、ここに立った時、突然に故郷の景色を思い出したのだろう。平家落人のような逃避行を続け、行き着いた場所がここだった。この先、平家落ち武者のように隠れて生きて行くか、ここを死に場所と選んだのか・・。敗軍の将、兵を語らず。



カギが掛かっていて、建物の中には入れない。プレートを読むと、山下将軍は1945年9月2日、ここで捕虜となり、直ぐにバギオに送られ、翌日、降伏文書に署名した、と書かれている。
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小学校から数百m上がった先にちょっとした戦争記念平和公園がある。有料だが、博物館もある。旧日本軍に関する遺品とは全く無かったが・・
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公園の中央、一番高い場所に平和記念塔が建っている。英霊、戦没者、犠牲者を弔う。
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その塔の横の高台から眼下のキアンガン村を眺める。・・ああ、この景色は、将軍の故郷、大豊町の風景と全く同じじゃないか!
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イフガオ、ラガワの町に戻り、数軒しかない食堂の一つに入り、夕食を食べた。
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