ちゃおチャオブログ

日々の連続

ルソン山紀行(55)ビガンの浜辺で。

マニラ行の夜行バスが出るまでの数時間、ビガン郊外の海岸へ行って見た。
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随分広々とした海岸線だ。
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漁船が引き上がられているが、この海で何が捕れるのだろ。
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九十九里のように広い。先が見えない・・。
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ああ、前方に人がいる。行って見よう・・。
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ああ、若者が泳いでいるのだ。
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マニラへの夜行バスが出発するまでの午後の半日、ホテルのプールでゆっくりすることも出来たが、それでは余りにも能がない。どこへ行くあてもなかったが、急に海を見たくなった。南蛮貿易船がこのホテルの直ぐ傍のメスチーソ川まで遡上してきた位だから、海もそんなに遠くは無い筈だ。ホテルを出ると、丁度目の前にバイクタクシーが客待ちをしていた。運転手に海、ビーチへ行くようお願いし、向かった。

市内から海岸までは直ぐかと思ったが、案外離れていて、歩いたら30-40分では行けそうにない距離だった。市街地を出ると直ぐにも郊外の雑種地になる。高い木は見当たらない。殆ど平らな土地だ。昔はこの辺りも海だったかもしれない。少なくとも、暴風雨や高潮等で土地は痛められていたに違い。農耕には適した土地ではなく、畑とか果樹の栽培は全く行われておらず、背の低い雑草がぼうぼうと生い茂っているだけだ。

バイクタクシーで20分程走ると海岸に出た。背は低いが一応は防波堤もあった。その防波堤の先に穏やかな海が広がっている。ああ、南シナ海。この海のずっと先の方には、今中国と係争になっている南沙諸島、フィリピン名スプラトリーがあるのか・・。この静かな海を見る限りでは、全く平和な海だった。

堤防をまたぎ、砂浜へ出る。随分広い浜辺だ。九十九里、湘南海岸のように広々とした海岸線になっている。違う点と言ったら、人家や建物が全く無く、自然のままの海岸線だ。多分助左衛門が400年前、御朱印船の上から眺めた時と同じ風景に違いない。この海岸線は400年前、いや、多分1000年前とほとんど変わらない静かな砂浜で会ったに違いない。

海で泳いでいるグループがいる。珍しい。無人の砂浜かと思っていたが、矢張り町に近い浜辺。遊びに来る若者もいるのだろう。近寄って言葉をかける。向こうも、中国人か韓国人か日本人か何人かも分からない黄色人がこんな何もない浜辺にやってくるのは珍しいと思ったのだろう。にこやかに挨拶を交わす。日本人だと言うと、更にフレンドリーな態度を示し、飲んでいたビールを一緒に飲め飲め、としきりに誘う。断るのも大人げないので、カップ1杯を付き合い、写真を撮ってもらう。こんなビガンの田舎で、日本人と直接触れる機会など彼等にとっては稀有なことだろう。

砂浜で彼等と暫らく話し、防波堤の所に待たせて置いたバイクタクシーに戻る。この海、70年前は軍船の行き交う戦場の海だった。400年前は南蛮船の行き交う貿易の海だった。暫らくは中国のジャンク船と、欧州のスキッパー、帆船の時代もあた。この沖合の大分先で、今また中国との間に紛争が持ち上がっている。が、海は再び平和を取り戻すことだろう。ずうっと長い間、平和な海であり続けたように。



人々に挨拶し、言葉を交わす。向こうも、こちらが何人か興味があるようだった。
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ああ、彼等、浜辺でパーテイーをしていたのだ。
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ああ、美味しそうな料理ですね。
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勧められるままにビールを1杯頂き、皆と写真を撮る。
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ここで長居すると皆に申し訳ないので、早々に街へ戻ることにした。
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ビガンの海は波静かで平和な海だった。
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