ちゃおチャオブログ

日々の連続

「サウダーデ」モラエスの愛した町(12)眉山へ。

ホテルの窓から正面に眉山が見える。
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朝のバイキング。東横インも以前は貧相な朝食だったが、段々充実してきた。
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阿波踊り会館前の広場。この後ろの天神社横の参道から登って行く。
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中々整備された参道が続いている。
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山道際には、藪蘭のような綺麗な花も咲いている。
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天神社から歩いて15分、山の中腹を走る車道に出る。車道が上に見えてきた。
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ここからは車道を歩いて行けるが、林の中、「自然登山道」を行くことにした。
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徳島へ来た目的は二つあった。それは先ずモラエスの足跡を尋ねること。新田次郎氏と著名な女性作家藤原ていさんのご子息で、御茶ノ水大学名誉教授、且つベストセラー「国家の品格」の著者でもある藤原正彦氏が、約30年前、父の新田次郎がモラエスをテーマとして「孤愁」を毎日新聞に連載中の昭和55年(1980年)、68歳で急逝し、この「孤愁」は絶筆となってしまったが、正彦さんが父親と同じ歳になった3年前、父親が成し得なかった後半部分を書き足し、世に問うた。一昨年この本を読み、当方も機会があれば、モラエスの故地、徳島へ行って見たいと思っていた。

ここ1-2年円安が急速に進み、外国旅行の魅力が薄れ、又行く機会も減ったが、その外国旅行の代わりとして、今回の徳島ー神戸への旅行を思い立った。昨日の午後やってきたが、半日で十分とは言えないまでも、凡の故地を訪ねることができた。後、残る所はモラエスがおヨネ、小春としばしば訪れた滝不動、焼き餅を食べにやってきた和田乃屋だ。それは丁度眉山の麓にあり、眉山を登った後に立ち寄れば丁度良い1日コースになる。

二つ目の目的はその眉山に登ることだった。徳島は過去3回来ていて、1回目は徳島周辺にある四国霊場巡りで、この時は幾つかの九十九ケ寺を参拝した。2回目が10年ほど前に剣山に登山した時で、最後が7年程前に用務でやってきたが、その時は、観光は殆ど出来なかった。眉山は過去2回登っている。最初の時はケーブルで登り、帰りは車道を歩いて下山した。2回目はレンタカーで往復した。思い出深い山だ。この眉山に登ろうと思った切っ掛けは、随分以前に読んだ中村彰彦の歴史時代小説「眉山」で、「眉を描いたような山」とは一体どんな山なのか、興味を持った次第だった。

朝、ホテルの窓からは正面に眉山が見える。早々と朝食を済ませ、昨日の天神社の横の参詣道から登り始める。今日は土曜日で、しかも好天。にも拘わらず、この参道を登る人はいない。車で山頂まで行けるので、この町で、朝から歩いて登る人はいないのかも知れない。綺麗に整備された石畳の参道はお宮から約800m、一旦山の中腹の車道に出る。そこで漸く山頂から下りて来た人と行き交う。参道はここまでで、この先は車道を歩いて行くか、目の前の林道を直登するかのどちらかとのこと。林道を登ることにした。

灌木様の林道の中には、登山道らしき踏み跡が残されているが、登山者は少ないようだ。トレイルは殆ど薄れかけているが、林道の中には、いつの頃作られたものか、100m単位の石柱が中半傾き、残っている。600m、500mと山頂までの残りの距離が少なるなるのは嬉しい。と、突然林が切り開かれ、目の前に鉄塔が立っている。ああ、ロープウエイの鉄柱だ。遠くからカラカラ音がしてきたのは、このゴンドラを動かす歯車の音だったのだ。

鉄柱の前で一休みする。後ろを振り返ると、眼下に徳島の街並みが林の梢の向こうに広がっている。又、ガラガラ音がしてきて、振り返ると、宙吊りのゴンドラが頭の上を通り過ぎて行く。「阿波踊り会館」の4階から山頂へ通じるロープウエイで、当方が天神社の横から登り始めた時にはまだ動いていなかったが、9時になって、運行開始したのだ。乗客は殆どいないようだが・・。これも又、街の人は、皆車でやって来るのだろう・・。


< ほの暗き 林道喘ぐ いざ眉山 >



この先も石段があって、登り易そうだ。
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その石段も最初の10m位で、後は、林の中の山道となる。
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林の中の山道で、整備はされていないが、人の歩いた跡もあり、心配ない。
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ああ、前方に石柱が見える。600mと出ている。山頂まで600mということか。里程標みたいだ。
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突然林が切り開かれ、ケーブルの鉄柱が現れた。
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ああ、これは麓の阿波踊り会館から眉山山頂を結ぶロープウエイだ。
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眼下に徳島の街並みが広がっている。

< ほの暗き 山道喘ぐ イザ眉山 >
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