ちゃおチャオブログ

日々の連続

「サウダーデ」モラエスの愛した町(24)城山(本丸跡)へ。

縄文貝塚の横の沼地では大きな鷺(アオサギ)が悠然と闊歩していた。
イメージ 1



その先に城山に登る山道があった。
イメージ 2



後で分かったが、ここは裏側からの登城路で、今は原生林として保護している。
イメージ 3



山上に近づくと、山道も綺麗に整備されていきた。
イメージ 4



この石段を登った先が本丸跡だ。
イメージ 5





徳島城址公園に来て、最初に向かったのは正面に見える小山、通称「城山」と呼ばれている山だ。その城山の手前には昭和天皇行幸のみぎり、お手植えの植樹があり、時計と反対周りに山裾を回って行くと、大正年間、鳥居瀧蔵博士の発掘による縄文以前の石器時代人の遺跡跡があり、その手前の沼地には、人間ならぬ大鷺(アオサギ)が、そこを棲み家とするように、悠然と闊歩してる。地元の人にはそれ程珍しくないのか、立ち止まって見る人も、近づく人もいない。このアオサギも我関せずの面持ちで、餌を探している。

その先から城山に登る山道がついている。後で、下山時に分かったことだが、ここは裏山道で、本来の正面、大手道は、反対側、先刻跨線橋から下って来たところのやや左手方向にあったのだ。結果的には逆回転し、裏側から城山に忍び込んだことになった。その忍び手、いやこの搦め手の登城路は、自然保護林の原生林に覆われていて、通路からの侵入は森林保護の為に禁止されている。如何にもチャンバラごっこの子供の好きそうな藪ではあるが、中に入れないのでは遊びようがない。

登城路はなだらかな登り坂になっていて、凡そ10分も歩くと山上の城跡に登る。見た感じ1万坪、ちょっとした小学校の規模の小さな運動場程の広さで、そこはまっ平らに整地されている。この場所が嘗ての本丸跡なのだが、この城には随分以前から他の城にあるような天守閣は存在していなかった。松山城(勝山城)、宇和島城高知城にあるような立派な天守閣を持っていなかった点、この徳島城の他の城との人気度の低さがあったのだ。

しかし建物が何もないまっ平な山上も気持ち良い。山上の台地だ。周囲を背の高い樹木が覆っていて、木陰では親子連れの何人かが小さな子供を遊ばせている。公害も無いし騒音もない。台地の上を木陰を通り抜けた気持ち良い風が流れている。まだ赤子のような幼児にとっても母親にとっても、気持ちが落ち着くに違いない。樹林越しに前方の眉山を眺める。61mの城山から277mの眉山の山頂を眺める。今はニョキニョキテレビアンテナ、電波塔が林立しているが、蜂須賀の殿様がここから眺めていた当時には、実際、眉を横に長く引いたように見えたに違いない。城山に登って良かった。


           < 城山へ 涼を求めて 母子かな >

           < 城山の 木陰で遊ぶ 母子かな >



丸跡。標高61.7mの台地になっている。
イメージ 6




ああ、実際広々した台地だ。
イメージ 7




台地上を通り抜ける涼風が気持ち良い。ああ、親子が木陰で遊んでいる。
イメージ 8




樹林を通し眉山が見える。
イメージ 9




眉山山頂。蜂須賀様もここからこうして眺めていたか・・。
イメージ 10