ちゃおチャオブログ

日々の連続

「サウダーデ」モラエスの愛した町(25)徳島城址「城山」からの眺め。

城山、元本丸跡の台地は周囲を樹木に覆われていた。
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木の間隠しに徳島市内が見渡せる。
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ああ、駅横のNHK徳島放送局のアンテナも見える。
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新町の方の中心街だ。
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お殿様もこうして城下を眺めていたか・・
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標高61mの城山、徳島城本丸跡からの眺め。台地の周囲は樹木に覆われ、枝葉の間からは徳島市内の街並み、市街地の先の眉山吉野川、その先の鳴門の山並みなどが見える。樹木さえなければ360度の眺望が楽しめる筈だ。

この城山には石器時代から人々が住み着いていたが、近代の城郭としての歴史はそれ程古くは無い。戦国時代以前にはこの辺りは四国勢、近畿勢の草刈り場みたいな様相で、漸く吉野川上流から興った三好一派がこの地を支配していたが、それも程なく土佐の長曾我部が侵攻してきて、この地を支配した。

その後豊臣の時代になり、秀吉配下の蜂須賀が切り取りご免で、長曾我部を追い払い、以後この地は漸く安定した。蜂須賀は明治の廃藩置県に至るほぼ300年間、阿波淡路の2州を支配し、お殿様として収まっていた。実に阿波藩25万石、淡路洲本藩3万石を合わせた28万石の大藩のお城である。

今その本丸のあった高台から四周を眺めている。と言ってもこの台地上には江戸時代を通じて、本丸、即ち天守閣はなかった。理由は分からない。松山、高知と比べ貧しかった訳ではないだろう。むしろ藍染を特産とし、同じ四国の中でも富んでいたと思われる。高松、松山、高知の親藩に取り囲まれた外様の悲哀だったかも知れない。

お城を取り囲むように二つの川が流れている。新町川助任川だ。吉野川から流れ込んだ二つの支流を上手に取り込み天然のお堀としている。そう、この助任川、中国洛陽の渭水になぞられていた。そしてこの城山は渭山。先刻の諏訪神社に架かっていた扁額「渭津五社随一」の意味は、今こうして城山の上に立ち、漸く理解できるものだった。



本丸跡には一つだけポツンと、産土神の祠が祀られていた。
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台地には3か所の登り口が付いている。
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もう一度町を眺める。
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もう一度眉山を眺め、下山する。
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今度は裏道ではなく、大手道を通って下山した。
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