ちゃおチャオブログ

日々の連続

「サウダーデ」モラエスの愛した町(26)城山を下りて表御殿へ。

城山への本道はしっかりした石垣で作られていた。古城の趣だ。
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二の丸、三の丸と段々に下りてく。
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外地引揚者の慰霊碑などもある。四国、徳島からの多くが満洲、外地へ行っていたのか・・。
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二の丸跡。ここからは当時の城中の華やかさは今は感じられない。
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ああ、忠魂碑がこんな場所にあった。いつの時代のものか・・・
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徳島城址の本来の本道を下りおりると、流石にここは大手道らしく、石組みも堂々と、しっかりしていて、客人を迎えるにしても、お殿様が(仮称)天守台へ行くにしても、見栄えが良い。石段を下って行くと、順繰りに二の丸、三の丸と棚田状に下りて行き、それは常のお城のように本丸を囲み、守る形になっている。この徳島城も本来なら、他のお城同様に、今は大きな空き地となっている台地上に大きな本丸御殿、天守閣を作りたかったに違いない。少なくともその構想はあった筈だ。結局台地上は蜂須賀入府以来、明治の御一新まで空き地のままで終わってしまった。

本丸の代わりに城山の麓には「表御殿」が作られたのだが、江戸時代になって戦乱も収まり、世の中が安定してくると各地大名は天守閣を作る必要性も薄くなり、こうした平地での御殿造りに変わって行ったのだろう。毛利の萩城とか、佐賀城なども江戸初期に天守が火災で落ちて以降は、再築されていない。それは将に大本の江戸城でも言えることであり、その華麗壮大な千代田城(江戸城)も落雷で崩れ落ちて以降、再築されることはなく、今でも大きな天守台が皇居北の丸公園に残されている。

そんな風に、大手道を下り降りながら、二の丸台地、三の丸台地を通り、元来た場所の平地に降りた。この城址で一か所だけ寄ってみたい場所があった。それは「表御殿庭園」で、今は現存しないが、大手門を入った突当りの場所にある。最初に来た時に、正面右手に建物を確認していたが、先に城山に登るのが優先で、この庭園は後回しにした。国指定名勝の庭園は、さてどんなものか・・。


           < 城山の 木の間隠れの 渭水かな >



城山の麓に下りてきたら、何故か機関車が飾られていた。徳島は四国の主要駅だった。
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ああ、徳島藩祖、蜂須賀公の像が立っている。300年の安泰の祖となった人だ。小六の息子か孫に当たるのか・・・
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徳島城表御殿にやってきた。
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これから庭園の様子を見てみよう。
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池遊式の良さそうな庭だ。
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