ちゃおチャオブログ

日々の連続

「サウダーデ」モラエスが住んだ町(44)須磨にて。

須磨寺駅前の参道。お寺に向かって少し上り坂になっている。
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ここへ来たのは何年振りか・・。阪神淡路大震災前だから、もう20年以上も前か・・。
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参道の入り口には経塚があって、御堂もある。
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古い石碑が立っていて、重衡囚われの松、とある。
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案内板があって、虜囚となった重衡を憐れみ、地元の人は須磨の地酒、濁り酒を供したという。重衡の辞世の句が返歌として書かれていた。
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神戸市須磨、と言ったら、美しい海岸線が広がる平安時代からの景勝地で、明治の初め頃、外国人により海水浴が日本に紹介された早い段階から海水浴場として整備され、関西方面では堺の浜寺とここ須磨の浜が著名な海水浴場だった。だから関西で須磨へ行く、と言ったらそれは、海に泳ぎに行くことであって、お寺参りと受け取る人は殆どいないだろう。昨日のInaさんからのコメントにも、幼少の頃、叔父さんに連れられてこの須磨の海に泳ぎに来たと書いてあった。

山陽電鉄須磨駅で降りると直ぐ目の前が海浜公園になっているが、当方の今日の目的はお寺参りなので、その一つ手前の「須磨寺」駅で下車した。ここは急行の止まらない無人駅で、例祭日、縁日以外には参詣客も少ないのだろう。以前一度この駅から須磨寺まで歩いたが、どことなく見覚えのある参道風の商店街が続いている。少しばかりの上り傾斜で、正面の山に向かって道路は上がって行く。このなだらかな傾斜がお寺参りするという雰囲気を醸しだしている。

正面の山は一の谷古戦場に連なる山並み、どこかに鵯越などの戦場もあるのだろう。福原に遷都した平家軍が、義経を総大将とする源氏軍に押しまくられて、昨日参詣した生田の決戦場で敗れ、ここまで追われ、遂には義経鵯越の奇襲作戦に慌てふためき、この須磨の浜辺から洋上に逃れ、後、屋島、早鞆と、平家滅亡の第一歩となる戦いが、直ぐこの近くであったのだ。

須磨寺駅前には経塚などもあり、生田で敗れ、ここまで落ち延びて来た平重衡がここで囚われの身となり、鎌倉に送られて打ち首になったとの碑が、囚われの松の横に掲げられていた。「濁り酒」か・・。須磨の人々は哀れに思い、ここで重衡に末期の酒を供したのだ。奈良の大仏を破却し、東大寺を灰燼に帰し、飛ぶ鳥を落とす勢いのさしもの重衡も哀れ虜囚となって、辞世の和歌で返歌した。「須磨で飲むこそ濁り酒」。平家の栄耀栄華も一時のものだった。須磨寺への参道を歩き、義経が首実検の腰掛の松を想った。


          < 経塚に 重衡偲ぶ 濁酒 >

       < かたじけなや 須磨の情けの 濁り酒 >



参道の途中には、知恵の輪の神社もあった。
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参道はここで分岐、正面に「大本山須磨寺」の石柱あり。後ろは交番だ。
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交番の前には須磨寺周辺の案内図も出ていた。
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さて、参道に沿って、大本山へ向かう。正面の山は一の谷に繋がる山並みだ。
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須磨寺の山門が正面に見えて来た。
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