ちゃおチャオブログ

日々の連続

「サウダーデ」モラエスが住んだ町(46)須磨寺の腰掛の松。

須磨寺山門の正面に本堂がある。
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本堂、内陣を見ることもできる。
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ご本尊は聖観音。聖観世音菩薩だ。
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本堂は重文指定だ。
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本堂の左隣りに大師堂があり、その直ぐ横に腰掛けの松が置いてある。
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平家物語は以前断片的に読んだり、何かの書物に引用されているのを読んだりして、日本文学とりわけ戦記物の出来の良さには感心させられていた。源平戦記が読み物として広く人々に親しまれる以前には、琵琶法師などの語り手により、人々の記憶の中に引き継がれていった。この寺に来ると、以前訪問した下関壇ノ浦の前にある赤間宮に耳なし芳一の墓を訪ねたことを思い出す。昭和になってからは吉川英治が「新平家物語」を著作することによって、源平合戦は広く国民に親しまれ、ベストセラーにもなって「諸行無常、奢れるもの久しからずや」の出だしのフレーズなどは人々が口ずさむまでになった。

20数年前、当方が初めてこの須磨寺を訪問したきっかけは、そうした吉川英治の「新平家物語」や、その後書かれた司馬遼太郎の「街道を往く」の摂津の段に、この寺の事、こと、義経の腰掛の松の記述が強く印象に残り、神戸に行った際には是非この寺の松を見てみたいものだと思っていた。800年前の源平合戦の折、義経がその松に腰かけ、敗残の将平氏の首実検を行ったのだ。800年を経て、今も尚その場に横たわる赤松の古木。司馬が受けたであろう感動を自分も共有したかった。

山門に降り注ぐミストに一瞬あっけに取られ、境内に入る。正面の本堂、その左横に大師堂があり、腰掛の松はその大師堂の前にあった。長さ凡そ5m、胴回り約1mの巨木はそこに横たわっていた。今も残っている目の前の池で、打ち取られた平家の武将の首が洗われ、確か今でもこの池は「首洗いの池」と呼ばれているが、松に腰掛けた義経の前に晒された一人一人の武将の名前が呼び上げられ、首実検が行われた。

義経この時24歳、若き公達の首級、敦盛は数えの17、実年齢で言えばまだ僅かに15歳だった。耳なし芳一が今に再来したとしたら、この場面をどのように語ったか・・。義経自身がこの7年後、平泉で討死するとは、当時は誰も想像できなかったことだろう。

以前と同じように松はそこに横たわっていた。日本が沈没せず、この地球がどうにかならない限り、松はこの先500年も1000年も同じようにここに横たわっているだろう。1000年後日本人も地球人もこの日本から、この地球から死に絶えたとしても、松は同じようにここに横たわっているだろう。きりりと冑の緒を締めた24歳の若き義経、眼を閉じてさらし首にされた15歳の若武者
。800年前の二人の出会いが脳裏に浮かぶ。

< むざんやな 冑の下の きりぎりす >は、平家方の武将、72歳の斉藤実盛が自身の白髪を黒染めにして出陣し、見事に討死したものであるが、木曽義仲の眼前で首洗いした結果、黒髪がみるみる白髪に変わり果てたが、何かこの4人、義経と義仲、敦盛と実盛、何か共通する思いである。

何年か前、北海道礼文島で、礼文敦盛草を見たが、その丸味を帯びたふくよかな花弁は、こうした故事を知る者にとっては、涙を誘うものがあった。同様に熊谷草も咲いていたが、純な色合いの花弁で、源平戦いの後、武士を捨てて仏門に入った熊谷直実の澄み切った心の内を表しているかのごときだった。

          < 須磨寺の 腰掛の松 幾星霜 >



義経腰掛の松とその前の首洗いの池。
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<むざんやな>は、武家の宿命か・・。
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僅か15歳の敦盛はこの池で首を洗われ、晒された。今は鯉が悠然と泳いでいる。
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前方に三重塔が見える。
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三重塔へ行く。こんな所にもミストの設備がしてあった。
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