ガンジーのガートには大勢の人々が集まってきている。
インドのどこからやって来たのか、ツアー客の一団が、ツアーガイドの説明に聞き入っている。
この階段の下は沐浴場所になっている。
地方からやってきた人々は、有難く沐浴を始める。
ガートの建物は、増水に耐えられるよう、厚いレンガで、積み重ねられている。
バラナシは古い町で、街並みは秩序だってなく、誇りっぽく、非衛生だ。それは聖牛が路地の至る所にいて、至る場所に糞をして、その糞が乾燥し、巻き上がっているのかも知れない。この国で牛が何故神聖な四足動物になっているのかは知らない。以前何かの本で読んだ記憶では、インドの学校では、牛について、・農耕の助けになり、・牛乳を飲め、・肉を食べられ、・皮は靴になり、・糞は燃料になって、捨てる所が無い、と教えられているそうだ。子供の頃から神聖な動物として敬われているのだから、大人になっても牛を叩いたり、追い払ったり、イジメたりをするようなことはないのだろう。
近代化から取り残されたような町に住んでいる人々は、全体的に時間がゆっくり流れている中で、本当は貧乏で貧しい生活環境にあるのだろうが、一向にあくせくせずに、ゆっくりのんびり生活しているようだ。心に葛藤も悩みも無く、自然の時の流れに身を委ねているようだ。金持ちで贅沢な一般的日本人よりも、より豊かな心の寛ぎを持っているようだ。人生50年。輪廻転生の一時を人間として生きているかのごときだ。旅行したければ足で歩き、歩ける範囲を旅行したらよい。2500年前、お釈迦さんがやっていたように。
ガンジス河岸の段丘にはそうした哲学者、ヨギ、ヨガ、求道者があちこちにいる。まんじりともせず川に向かっている。が、川は見ていない。思考も停止しているだろう。無我の境地というおか、空観と言うのか・・。これがインド的なのだろう。デリーの地下鉄の大混雑、これから乗ることになるインド国鉄、寝台急行の殺人的混乱から比べると、何と異次元の世界だろう。この混沌として、収まりの付かない多様性がインド的なのだ。
ガンジーの川は濁って泥混じりだ。
河岸にはヨガの行者や、薬売りなどが客を呼び止めている。
ここでは又宗教家の話に聞き入っている。
町は狭い路地が入り組んでいて、雑然としている。
ドロボーか哲学者か・・