ちゃおチャオブログ

日々の連続

最悪のインド旅行記(32)ビンビサーラ国王と温泉。

霊鷲山から麓までの間には、嘗ての聖人達の住居跡や、参道に座している乞食家族のあばら家などもあった。
イメージ 1



これは山中に掘られた昔の井戸のようだ。
イメージ 2



霊鷲山から竹林精舎へ向かう途中に、ビンビサーラ国王が囚われた牢獄跡がある。政府の行政官か考古学者か・・
イメージ 3



ここから約2キロ前方には霊鷲山の山頂が丁度良く見える。
イメージ 4



仏教に帰依し、釈迦を保護したビンビサーラ国王と王妃が死の直前まで囚われていた監獄跡。近年になって発掘調査され、判明した。
イメージ 5




自分は仏門の家の生まれで、幼少より世俗仏教には慣れ親しんできた。が、かと言って熱心な仏教信者でもなく、系統だてた勉強もしたことはない。それでも家柄が成せる業か、仏教関係の本を読んだり、空海最澄日蓮、等々の事績には興味と関心を持ち、各地各国の寺社等の参詣は機会があれば欠かすことはなかった。従って、今回半年前のツアー旅行に引き続き、再びインドを単独で再訪したのは、気持ちの中にブッダガヤを中心とする、釈迦の聖地を見てみたい、という自分の心の中の願望があったのかも知れない。

昨日の内にマハーボデイー寺院(大菩提寺)にお参りし、悟りを啓いた菩提樹の下に座り瞑想の真似事をし、更に苦行の山から下りて来て、最初に人として蘇ったスジャータのお粥ヨーグルトの布施、そこは今では大きなストーバになっているが・・。それと今日、最晩年を過ごした霊鷲山。80歳になった釈迦はこの山を下り、生誕の地、ルンビニに向け最後の旅をしている途中のクシナガルで息を引き取った。お釈迦様の入滅、仏滅である。

山を下りる。参道の両側に数十人、数百人は居ようかと思える乞食の前を通って下りて行く。もう何日もお風呂に入っていない垢まみれの人々。本当に不可触賤民を地で行っているようだ。子供達も一緒に座っていて、当然、学校などへは行っていないだろうが、そうした家族の小屋掛けのあばら家が茂み、ブッシュの中に散財する。彼女、彼等はここでこうして参詣者の施し、恵みを受けて生活しているのだ。この国にカースト制度が定着して以来の何百年、何銭年と続く見慣れた光景かも知れない。

山を下りて、次の「竹林精舎」へ行く途中の原野の中に、2500年前のマガダ国時代の牢獄跡があった。何年か前、と言ってもどれ位以前かは知らないが、ここに当時の牢獄があったことが発掘により発見された。ここは仏教経典にも出て来るマガダ国王ビンビサーラが幽閉されていた場所だ。ビンビサーラ国王は釈迦の最大の庇護者であったが、国の政争に巻き込まれ、息子に捉えられ、この監獄に幽閉された。丁度ギリシャ神話、オイデプスが想起される事件である。

この牢獄跡から2キロ程離れた場所に霊鷲山の山頂が見える。ここからは人の姿までは見えないが、釈迦が説法する山頂の台地が平らに見える。国王は毎日この牢獄の窓から霊鷲山を眺めていたという。自身の身体に蜂蜜を塗り、牢獄の国王への栄養補給を続けていた王妃は、後からそれが分かって捕えられ、国王と一緒に獄に繋がれた。栄養補給を絶たれた二人は間もなく死亡した。釈迦は二人の死亡を知り、間もなくこの地を離れ、生まれ故郷へ旅立って行った。

この牢獄跡から数キロ行った先に少し賑やかな集落があり、人口もまとまっている。ここが嘗てのマガダ国の王都を引き継いだ集落かも知れない。何故かここに大きな温泉浴場がある。テルマエ・ロマノではなく、さしずめテルマエ・グリコか・・。釈迦の生まれた釈迦族もそうだが、この国のマガダ族もアーリアン系。遠くヘレニズムの地から移動して来た人々だ。古来から温泉が好きだったのかも知れない。



牢獄跡から数キロ行った先に温泉場があった。
イメージ 6



インドで温泉とは! 暑い国だから温泉など無いと思っていたが、案外流行っていた。
イメージ 7



入ってみないか、と誘われたが、温水も汚そうだったし、脱いだ衣類からの現金盗難等の心配もあり、見るだけにした。ドライバーは、一人でさっさと入って行った。
イメージ 8



パンツを履いた背の高い男性がドライバー。
イメージ 9



うーん、彼等はアーリア人の子孫、テルマエ・ロマエならぬテルマエ・グレコか・・
イメージ 10