ちゃおチャオブログ

日々の連続

最悪のインド旅行記(34)ナーランダ学院。

竹林精舎の近くの裏山には、こうした岩盤をくり抜いた洞窟があり、仏僧とかヨガの行者などが住んでいたらしい。
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中々立派な洞窟で、今でも使用できそうだ。
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さて、次に向かったのは、竹林精舎から30分程離れた場所にあるナーランダ学院跡だ。
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一時は仏教も廃れ、廃墟になったが、近年発掘されて整備されている。
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広大な敷地で、後楽園球場の4-5倍はあるような大きさだ。
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高台から学院跡を眺める。
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殆ど参詣客のいない竹林精舎から更に30分程車を走らせると、ナーランダ学院の遺跡に辿り着く。ここも又嘗ては茂みに覆われていた原野だったが、近年の発掘調査で今は殆ど旧に復する状態に復元されている。こうした点、先般のトルコ小アジア旅行の時も感じたが、石の文化、石の構築物は何年経っても旧の形骸を留めている。4000年、5000年前のピラミッド・スフィンクスが旧を留めてそこにあり、200年前ナポレオンが眺めたと同じ情景を我々現代人も見ることが出来るのだ。

このナーランダ学院は、お釈迦様が入滅してほぼ1000年位経った後の5世紀頃、この地に仏教を研鑽し、仏道を修行する一大学習センターが建設され、一時は学僧その他を入れて3万人程がここで学んでいたとも言われるが、7世紀中葉、三蔵法師がここへやって来た時でも1万人からの学僧が勉学研鑽に励んでいたとのことである。当の玄奘三蔵もここで7年間の学問を収め、大般若経を初めとする数々の膨大な経典を持ち帰り、時の玄宗皇帝に献上し、16年間の西域の行脚を無事に終えたのだった。

今ドライバーに案内されてナーランダの遺跡にやってきた。赤茶けた土の塊、小山のようなものが前方に見える。後楽園球場を何倍かしたような広大な面積だ。デコボコはあるが殆ど平坦だ。盛り上がりのような丘はない。見晴らしの良い高台に立って、遺跡を眺める。赤レンガで固めた数多くの区画が眼前に見える。それぞれの住居跡であったり、教室であったり、食堂だ。・・ここで1万人を越える僧侶、学僧が勉学していたのか・・。壮大な規模の学校跡だ。発掘は丁寧に行われていて、当時のままの状態、1500年前の学院が眼に浮かぶ。

ドライバーの案内で迷路のような学寮の通路を歩く。赤煉瓦でキチンと舗装された通路には排水溝もついていて、雨水とか汚水が流れるようになっている。各個人の部屋は2-3壺位の広さで、通路に面して並んでいる。ドライバーからここが誰が住んでいた部屋、あそこが誰それ、と案内されるが、元々インドの高僧の名前など知らないので、聞いても上の空だ。玄奘の部屋はどこだったのか聞いても、ドライバーには分からないだろうし、大体、インド語で玄奘をどう発音するのかも分からない。しかし部屋は分からなくても、玄奘も嘗てはこの通路をこんな風に歩いたのか・・。凡そ30分のナーランダ学院の観光を終え、次の中国寺院へ向かうことにした。



この積み重ねた煉瓦の下に住居跡がある。
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各部屋は小さく区切られていて、プライバシーが保たれている。
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これから住居跡を歩く。
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迷路のような住居跡の通路を歩く。排水の溝も掘ってある。
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1500年も前に、この様な立派な仏教学校が作られていたとは・・。奈良の大学寮など比較にならないだろう・・。
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大きな祭壇跡もある。
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案内人と記念写真を1枚撮って、次の場所へ向かう。
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