ちゃおチャオブログ

日々の連続

皇居の桜ー通り抜け(2)「二重橋」。

今通り過ぎた桜田門。堂々たる門構えだ。
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皇居前広場の正面には丸の内のビジネス街が見える。
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東京の顔にふさわしい繁栄ぶりだ。
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皇居の森の向こうには高層ビルが林立している。
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ああ、広場の玉砂利だ。
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桜田門をくぐって宮城に入ると広々した玉砂利の広場に出る。遠景に背の低い松の庭木が青々しい。皇居前広場だ。あちこち世界の王宮の王宮前広場を見てきたが、ここ皇居前広場ほどシンプルで飾りなく、楚々として且つ気の引き締まる清浄な空間はない。それはこの広場の正面に皇居吹上御所に通じる二重橋があり、この橋を渡った奥に陛下の居ますお休み所があるという、張り詰めた気が漂っているからかも知れない。

国民の大半は小中学生のいずれかの時、修学旅行で東京を訪問し、そしてここ二重橋は欠かせない観光スポットとなっている。だから日本国民であれば、一生に一度はこの「二重橋」を見た経験がある。地方に住んでいて、もう二度と上京することもなく、従って小中時代の修学旅行で一度しか見たことのない人も、その後の新年参賀天皇誕生日など等、折に触れこの橋がテレビ映像に流れ、この橋の美しさ、精神の緊張はしばしば目にしているだろう。「二重橋」は国民の目に焼き付いた映像となっている。

嘗ての修学旅行の欠かせないスポットも、今や世界的認知度も高まり、世界の観光客がこの場所を訪れている。中でも観光客数1位となった中国人観光客の数が多く、二重橋に面する写真撮影スポットには、今日も又沢山の団体客が、中国人とすぐ分かる開けっ広げな大声で、いや、傍若無人と言った方が適しているかも知れないが、一番写真写りの良い場所を争っている。共産国中国人にとって、天皇は鬼畜のごとき存在である筈なのに・・・、日本の文化歴史伝統が如何ほど理解し得ているのだろうか・・。

二重橋」。通称「めがね橋」。大正時代に建造されたこの石橋は、長崎めがね橋の技法そのままに、半弧を描き水面に浮かんでいるが、その半弧が水面に映り、丸い眼鏡となっている。「二重橋」の名称は、この半弧が二つになっているから二重というのではなく、この石橋の更に奥にもう一つの鉄橋があり、手前の石橋、奥の鉄橋、この二つが合わさって二重橋となっている。玉砂利の場所からは良くは見えないが、石橋のすぐ手前まで行けば、吹上の木立に入り込んでいく鉄橋をよく見ることができるのだが、今日の目的は「乾通り」にあり、橋の際まで行くことはしなかった。

昭和20年8月15日正午、この皇居前広場のすぐ先にある内幸町日本放送協会(NHK)より終戦詔勅、即ち、玉音放送が流されたが、その時、この広場には誰もいなかった。その後、日本の敗戦を知り、ぼつぼつ人も集まってきたが、国民の疲弊と茫然自失、陛下の衷心を察してこの場所に集まってきた国民もそれ程多くはなかった。「日本の一番長い日」は半藤一利氏の小説の中の話だった。今又この玉砂利の心地よい摩擦音を耳に止め、更に坂下門に急いだ。



今日も又沢山の観光客がやってくる。どうも見た所、中国人の団体客のようだ。
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敵視すべき天皇の居城。彼らは皇居を見て、どう思うだろうか・・。
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日本人なら修学旅行で一度は訪ねる二重橋
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広々とした、世界に誇れる皇居前広場だ。心が洗われる。
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さて、坂下門に急がないと・・。
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