ちゃおチャオブログ

日々の連続

皇居の桜ー通り抜け(3)坂下門。

坂下門入り口でボデーチェックを受け、いよいよ皇居内に参内する。
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ああ、前方に見える建物は宮内庁だ。28年前、昭和天皇御不例の時、ここの病院が毎日テレビ画面に映し出されていた。
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さて、いよいよこれから乾通を通り抜ける。宮内庁横の桜。
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遠方には隅櫓も見える。
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ああ、すごい警備警察官の数だ。平和な日本だから、皆暇そうにしている。
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今から28年前の平成元年、いやもとい昭和64年、この坂下門にある宮内庁病院が毎日テレビで映し出されていた。この年の暮れから昭和天皇の御不例が続き、レクイエムのような静かな協奏曲の伴奏でクリーム色の建物の映像が映され、その日の陛下の病状が伝えられた。多くの国民は陛下のご回復を願い、又、二重橋、坂下門まで出向き、記帳し平癒を願った。その時以来ここ坂下門と宮内庁病院は国民の目に焼き付くこととなった。

自分も嘗て記帳までは来たことがあったが、皇居の中に入るのは今日が初めてだ。皇居広前。厳重な見回り品チェックを受け入内する。「坂下門」。この門の中からが内裏だ。今までの玉砂利からアスファルト道路に代わり、道路は前方に向け心持ち持ち上がっているようだ。緩やかな登り傾斜はこの先ずっと奥の吹上御苑まで続いている。そうここは緩やかな坂の下に位置する御門だから「坂下門」。

「坂下門」は江戸時代、皇居がまだ千代田城と呼ばれていた頃からこの場所にあり、そう呼ばれていた。江戸時代末期の慶応4年、品川高輪にある薩摩藩邸で行われた西郷隆盛勝海舟の会談により、江戸城(千代田城)の無血開城が決まり、江戸は戦禍から免れることができ、この御門も被災を免れた。時は下って昭和20年8月15日、坂下門正面にある宮内省から前日録音されたばかりの終戦の詔が収録されているレコードが、この御門から内幸町の日本放送協会(NHK)に運ばれる途中、終戦に反対する一部陸軍の跳ね上がり兵士により奪われるという事件があった。(「日本の一番長い日」)。今から見れば盲目の徒、現状認識のできない硬直した考えの士官連中だった。精神論で戦争は勝てるという間違った思考の元に幾多の国民が死地に送られた。

昭和天皇はそれ等全てを見通し、今から28年前に亡くなった。亡骸はこの御門から出棺し、八王子の多摩御料に運ばれ、埋葬された。今その門の奥に宮内庁のクリーム色の建物が見える。病棟はどこあるかは外からは分からない。ゆっくりアスファルト道を歩き、宮内庁奥にある筈の吹上御所を想像した。平成天皇昭和天皇の意を引き継ぎ、慰霊の旅を続けている。傘寿を過ぎた今も尚且つ。



宮内庁横からは、吹上に抜ける道路もあるが、奥は見えない。
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由緒あり気な冠木門もある。
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乾通り。左には昔の女房長屋、今でいう女官、侍女の控えの長屋になっている。
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道灌壕。この城が最初に太田道灌により建築されたその上に築城された名残の壕か・・
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この木立の奥に吹上御所があるのだが、残念ながらここからは見ることができない。
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