ちゃおチャオブログ

日々の連続

上総国総社と富士講。

市原での用事が簡単に済んだので、駅前にある「飯香岡八幡宮」に寄ってみる。
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境内は広々としていて、古木も多い。
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ここは旧上総国総社。本殿は足利義政寄進との伝承だ。八幡さんだから祭神は誉田別命応神天皇)だ。
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重文の本殿、社殿だけあって、立派な拝殿だ。
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楽殿なども備えている。これは十分の社殿を横から見たところ。全く八幡造りになっている。
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境内には天然記念物の逆さ銀杏の大木もある。
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先週水曜日所用で市原に出かけ、用事自体はほんの数十分で終わったのだが、夕方から三郷で知人のナベさんと会う予定があり、時間潰しも兼ねて駅前の「飯香岡八幡宮」に寄ってみた。この八幡宮は由緒ある宮で、上総国総社(惣社)となっている。謂わばここの場所に上総国国府があったことを意味していた。千葉はその昔、上総、下総、安房の3国に分かれていたが、その内、上総の国府がここ市原にあり、下総の国府は市川であった。であるからこの二つの町「市原・市川」には国分寺国分尼寺もあったのだ。

さてこの飯香岡八幡宮。名前の通り八幡造りの立派な社殿で、由緒書を読むと、本殿は国指定の重要文化財。伝・足利義正寄進となっている。部門の頭、石清水八幡宮の系列社として、威厳もあって格式の高さも感じられた。以前、上総一ノ宮にある玉前神社に参詣したことがあったが、やや小高い台地にある想像していたよりも小さな神社で、ここが上総の一之宮かと、やや落胆した次第だったが、ここ「飯香岡八幡宮」は流石に上総総社(惣社)だけあって、社殿の立派さのみならず、広々した境内の奥床しさなど、先の一の宮とは比べようもない荘厳な雰囲気を醸していた。

今でこそ市川は東京に近い場所にあって街並みも市原よりは格段に上であるが、嘗ての奈良時代には、この上総がより都に近い距離にあって、同じ房総の中、こちら市原が上で、市川が下だった。古事記万葉集の時代からこの地は有名で、日本武尊弟橘媛の悲恋を描く走水はこの市原の海岸の直ぐ先の海で、古来この地と対岸の観音崎を結ぶ海の道は古代の主要な街道となっていた。この道を後年坂上田村麻呂八幡太郎義家も通ったに違いなく、彼の征夷大将軍にちなみ、ここに八幡宮が建立されたのだろう。

奈良朝以前の古き時代より人々はこの地に生活し、浦賀水道三浦半島、更にその先の相模灘の向こうにそびえる霊峰富士を仰ぎ見ていたであろう。時に噴火し、噴煙をなびかせ、静まる時もあった。富士講が盛んになったのは、江戸時代中期、人々の生活も安定し、大山詣から始まってお伊勢参り、更には宝永の大噴火が収まって以降の富士登山。仰ぎ見る富士の行きつく先が登頂であった。関東平野の富士山が見える各地には流行り病のように富士講が作られ、先達の元、同行の志を集め、富士に向かった。それは今で言えばイスラム教徒が生涯に一度の夢としてダッカへの巡礼を果たすものと似ていた。

ここ市原の飯香岡八幡宮の道路を隔てた直ぐ横にも富士塚が作られていた。高さは凡そ10M程度か。ビルで言えば5-6階の高さもない。それでも吉田口から始まって、1合目、2合目と合標が立てられている。人々の富士に対する思いがここに凝縮されていた。その塚の前には大きな御影石の石碑が4-5基立っている。苔むした古い石碑は既に文字も薄れているが、江戸時代からのものだ。何十年かに一度お金を集め、富士登山を顕彰し、名前が刻まれる。自分は既に2回富士登山をしているが、それは吉田口にしても富士宮口にしても5合目からの登山だった。交通不便な当時のこの地の人々にとっては、富士まで行くのも大変なことだったが、更に又千丈の峰を極めるのは至難の事であり、後々まで誇りにすべきことだった。苔むした石碑と富士塚。人々の思いは富士に凝縮されていた。



道路を隔てた先に塚のようなものも見える。
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ああ、富士塚だ。高さ10Mもないようなものだが・・。
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むむ、登山道まで刻まれている。
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吉田口。当時の人は吉田から登っていたのか・・、
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二合目、三合目、と道標は山頂まで続いている。
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市原の人々の思いの詰まった富士塚だ。
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