ちゃおチャオブログ

日々の連続

湯河原の1日(9)湯河原は東京の奥座敷。

万葉公園の入り口には観光会館があり、中には展示コーナーもある。
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湯河原の四季、歴史等が紹介されている。
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この辺りは奥湯河原が開発される以前は最奥で、古い旅館などが残っている。
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ここは誰の邸宅だろう・・・。東郷元帥が大倉喜八郎の別荘で湯治していたといわれるが・・
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ああ、川(この辺りから藤木川に変わる)の向こうに見えるのは、光風荘か・・
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舛添前東京都知事がいみじくも言っていた「湯河原は奥多摩よりは近いんですよ!」は、けだし迷言で、彼がそんな迷言を言わずとも、60-70年前には天下の迷宰相吉田茂は大磯の自宅からキャデラックに乗って毎日国会通いをしていた。湯河原はその大磯からはほんの少し先の湘南地区にあり、確かに東京からは近い。先の山本有三国木田独歩に見るように、この町は大正時代から文化人、政治家の逗留地となり、駅前の案内板にあった竹内栖風や有三なども亡くなるまでの20数年、晩年をこの町で過ごした。温泉があり、気候温暖で、東京からも近く、まさにこの街のPR「東京の奥座敷」に違いない。

万葉公園の中にある「独歩の湯」も当方最初は「独鈷の湯」の間違いではないかと怪しんでいたが、その謂れを見ると、名前は国木田独歩から採られたものと分かり、この町が文学者の町であるとの感をいよいよ強くした。しかしまあ、当時の市長か町の担当者か知らないが、ダジャレ好きの人もいたものだ。「独鈷」を変えて「独歩」にしたとは! 座布団1枚!そんな風に内心の笑いを抑え、万葉公園を下り元の観光会館に戻り、館内に展示されている四季の折々などのパネル板を一瞥し、又元の国道に歩を進めた。

この辺りは先の五所神社からは相当上った辺りになり、この少し先に町営美術館があるが、そこから先は街並みも途絶える。前の川も今までは千歳川と呼ばれていたが、ここから先は藤木川に変わる。この川の先に不動滝があるが、奥湯河原の温泉地までの数キロは人家もない。奥湯河原が開発されたのはいつ頃からかは知らないが、そこが開発されるまでは、この辺りが湯河原の最奥であったに違いない。観光会館の前や左右には、古い戦前からの古風な旅館が並んでいる。庭の枝木もよくているされ、折からの紅葉も美しい。そんな一つに2.26事件で舞台になった光風荘の本館、伊藤屋旅館などもあった。他に個人の別荘かとも思える邸宅もあり、一体どんな金持ち、文人が住んで居るのだろうかと、想像を逞しくさせられる。

人家が途絶えた先にも最近の建築と思われる7-8階建ての大きな温泉マンションや施設などもあって、開発は尚活発に進められているが、中でも目を引いたのはリゾートトラストの分譲マンションで、階数は4-5階建てでそれ程高くはないが、傾斜な地形を利用しての横にバカ長い建物で、現在建築途上であるが、これが完成した暁には一体何百室の分譲がされるのか、目を見張る規模のものだった。その建築中のリゾートトラストの物件から少し先に「不動滝」はあった。

夏目漱石も又最晩年をこの町で過ごし、ここの温泉旅館「天野屋」に逗留し、最後の小説「明暗」を書きあげた。その「明暗」の中にこの「不動滝」の記述が出てくるのだが、当方、以前「明暗」を読み始め、読んでいて気分が暗く、重くなる気がして途中で読むのを放棄したが、今この滝を見ていると、両側から樹木が覆い重なり、陽も差さず、滝の水だけひょうひょうと流れ落ちちていて、如何にも暗い感じである。他に観光客も誰もおらず、薄寒さの中、長居はやめて、奥湯河原に向かうことにした。



純和風旅館「富士屋」。こんな所に泊まったら、一体いくら取られるのか・・
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ここはこごめの湯か?
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この辺り、町営美術館の辺りで、街並みは尽きる。
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更に先にはライオンズの温泉リゾートマンションとか、現在建築中のリゾートトラストの巨大温泉施設があり、ここから先は人家が尽きる。
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奥湯河原への途中、漱石の「明暗」にも出てくる「不動滝」。
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