ちゃおチャオブログ

日々の連続

湯河原の1日(14)「しとどの窟」について。

しとどの窟はここから徒歩20分と出ている。・・まだ更に20分も歩くのか・・
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霧雨の中の山道を窟屋に向かって歩いて行く。
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火曜日のこんな天気の悪い日、山道を歩く人など誰もいない。
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もう既に20分は歩いた筈だが、中々それらしいのに出てこない。ちょっとした広場に出ると、標識があって、「しとど」は元来た方角だ。
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そこに掛かっている案内板を見ると、どうも道を間違えてしまったらしい。このまま歩き続けると、城山まで下ることになる。
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「しとどの窟」と聞いて、直ぐ分かる人は相当に歴史好きか、歴史に詳しい人だ。当方もつい最近までこんな名前すら知らなかった。今年の3月中国成都を旅行し、帰国後旅行記成都の3日間」(http://blogs.yahoo.co.jp/ciao3776/folder/561950.html)を綴ったのだが、その時、成都交通大学で教鞭をとっていたさる人から当方ブログへの投稿があり、返礼に彼のブログを訪ねた処、彼は又歴史好きであり、関東周辺の中近代の史跡等を訪ね歩いていた。その内の一つが、ここ頼朝の史跡「しとどの窟」で、その時、彼のブログを見て、湯河原にはこんな場所もあるのかと、初めて知ったのだった。

今回同期の集まりが湯河原で行われるのを機会に、この「しとどの窟」は絶対に欠かせてはならない場所として、朝から8キロの山道をここまで登ってきた。これから「窟屋」に向かうのだが、考えてみれば、頼朝との繋がりは目に見えない形で連綿と続いてきた。彼の遠島の地が伊豆中央部、韮山にある「蛭が小島」で、そこは自分の生まれた西伊豆の港町からは程近い場所にあった。10年前にはこの同期会が熱海の赤根崎で行われ、終わった翌日、今回は透析で参加できなかった相模原の先輩と、今回も又遠路遥々宮崎から参加した先輩の3人で、ホテルから程近い場所にある伊豆山神社を参詣したが、そこは頼朝との縁の深い神社であり、頼朝政子の木造が奉納されていて、二人が仲良く座ったとされる長石などもあって、高い石段の上から波静かな伊豆の海を眺めたのだった。それから更に遡るバブル華やかなりし頃、小田原郊外の山中に豪華な簡保の宿ができ、1日そこの温泉に浸かったが、今思えば石橋山はそこからほど近い海側にある古戦場だった。

治承4年(1180年)は戦乱に明け暮れた年だった。春には木曽義仲倶利伽羅峠で挙兵し、源頼政は京に侵入、清盛はたまらず都を神戸福原に移転し、その後の8月、頼朝は伊豆で挙兵し、伊豆山神社に先勝祈願をしたものの、石橋山では平家追討軍に散々に打ち負かされ、配下の7騎で這う這うの体で湯河原まで落ち延びた。湯河原を根拠とする土肥氏に匿われたのは、先に城願寺で見てきたとおりだ。更に追っ手から逃れるために、城山から更に奥まった山中深くのここ「しとどの窟」に身を潜めていたが、この場所は頼朝逃避行エポックの主要な場所だ。今では余り使用例がないが、古い言葉で「しとどに打たれる」、とか「しとどに涙する」、「しとどに濡れる」などの「しとど」と同じだ。この「しとど」の意味が頼朝逃避行の「しとどの窟屋」から派生したものかどうかは知らない。だが、頼朝の苦難難行から思えば、そこから派生したと考えても、不思議ではない。さて、これからその窟屋に向かおう。



もう一度元の国道の場所まで戻ると、どこからやってきたのか、20数人の登山グループがいて、聞くと、「しとど」はこの先のトンネルを潜った下の方にあるとのこと。
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ああ、「しとど」はこの150m程のトンネルを越えた先にあったのか・・。
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しとどは、この坂道を400m程下った先にあるのだ。
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誰もいない霊域。身震いする程心細い。
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参道の両側には石灯籠が並び立てられ、そのままあの世に引き込まれる感覚になる。・・400mだから、もう間もなくだ。
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