ちゃおチャオブログ

日々の連続

モラエスの故地を訪ねて(29)モンテの砦からの眺望。

「モンテの砦」山頂は平に整地され、広大な広場になっていた。
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台地状の城塞の周囲は背の高いコンクリートで防御されている。
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砦を守る大砲が5-6m沖に放列されている。
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狭間から海を眺めるが、今はもう海はどこにも見えない。
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周囲は分厚い城壁で守られ、どこからも海を見ることはできなかった。
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マカオの港を守るモンテの砦。高さは300mもない程の小山に過ぎないが、眼下は海面と殆ど同じSea Levelだから、ひときわ高く見える。「モンテ」は「山」。だから山城であり、日本語ではあちこちの山の名前にもなっている「城山」である。明治の初め頃モラエスがここマカオへNo.2の副総統兼マカオ港司令官として、前任地のインドのゴアから赴任してきた時には、この港町はポルトガルが領有してから既に200年は経っていた。海外ポルトガル領土の中でも、ここは中国貿易の窓口として繁栄していた領土の一つだった。だから彼はこの港を海外の列強、競争相手、海賊その他から守る重要な使命を帯びていたのだ。従って彼は港務局長、海軍司令官として、毎日この丘に登り、眼下に広がる海に目を光らせていたに違いない。

山城の山頂は平に削られた台地状で、この砦が明治の初めの現役の頃には沢山の兵士が教練し、号令が飛び交い、兵舎もあって、生き生きした広場だったことが想像される。台地の周囲は人の背の高さを越える分厚いコンクリートや岩石で守られていて、当時の貧弱な大砲の弾程度なら、跳ね返してしまいそうな頑強さがあった。鳥目と言うか、銃眼というのか、日本のお城であれば狭間になるが、5-6m置き位に据えられている大砲は、その狭間の隙間から砲口が港に向って放列し、見るからに難攻不落の城塞を思わせた。現実にここマカオはつい最近の昭和の御代、2000年代に入るまで、どこからも侵略されず、ポルトガル領であり続けた。


尤も、モラエスが指揮を執っていた頃からは既に150年以上も過ぎていて、こうした旧式大砲の時代は日露戦争を境に廃れ、以降は近代的武器のもっと性能の良い近代戦に入って行ったのだが、ここマカオの城塞はそうした近代戦から取り残されて、町のシンボル、守り神として存在しつづけた。明治以降の近代戦で、日本のお城が殆ど何の役にも立たず、今では各地の優れた観光遺産として位置づけられているのと同じ運命をたどっていた。

モラエスを思い出しつつ、狭間から眼下を眺める。しかし海はどこにも見えない。このマカオの町も150年の間に大きく発展し、嘗ては大砲の弾の届く距離にあった海も埋め立てられ、ビルができ、建物の陰に隠されて、全く見える状況にない。どころか、目の前にはこれ見よがしの超高層ビル、「新リスボア」のカジノホテルがこの町を代表し、象徴していた。モラエスの生きた明治は遥か遠くに過ぎ去っていた。



古い旧式の大砲。日清、日露の頃にはこんな大砲が使われていたに違いない。
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海の代わりに今見えるのは、近代的な高層ビルだ。
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あの右側の高層ビルは新リスボア、カジノホテルだ。
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カジノシテイー、大した発展だ。
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最初にリスボアが出来、それ以上に客が押しかけてきて、こんな超高層のカジノを作った。人の飽くなき欲望の象徴だ。
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