ちゃおチャオブログ

日々の連続

モラエスの故地を訪ねて(34)中国国境、関門へ。

聖ポール大聖堂の石段の上から下の商店街を見ると、相変わらず沢山の買い物客が集まっていた。
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中国本土からやってきた観光客。皆お土産にビーフジャーキー、ポークジャーキーを買っていく。
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この聖堂ともこれでお別れだ。又来る日まで、ザビエルさん、モラエスさん!
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大聖堂の下の商店街はほぼ全部がジャーキー店だ。
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商店街のちょっと先は昔風の住宅街になっている。さて、タクシーがやってくるのを待つとするか・・
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マカオ博物館の正面入り口近くに立つ宣教師マテオの銅像について、昨日ブログの知友キムチさんから、彼の着ている衣服は中国風で、「道教の老師様のような服装をしている」、との指摘があったが、それはまさに正鵠で、銅像の横の案内文にもある通り、彼の中国での漢字表記は「利瑪竇」と書き、キリスト教普及のために深く中国に浸透し、最後は北京で亡くなっている。

つい最近稲垣武氏の「平賀源内・江戸の夢」を読んでいたが、その中にたまたまこのマテオの記載があり、そこには「16世紀末、明代の末期にマテオ・リッチ天文学や数学に秀でた宣教師達が中国にやってきてヨーロッパの科学書の翻訳が進められた。」との記載があり、「1630年にはユークリッド幾何学を紹介した「幾何原本」なども出版された。」との紹介もされていた。

1630年頃と言えば、日本は既に鎖国をし、それ以前にキリスト教徒、バテレンなどは国外追放となり、その多くはここマカオへ逃避した。キリシタン大名高山右近などもフィリピン・ルソンに追放される以前は、暫くここマカオに滞在していたが、このセントポール大聖堂で、マテオ等イエズス会宣教師達と会っていたかも知れない。日本への布教の道が閉ざされた彼等は明末清初の中国に向かい、多くの足跡を残していた。後世のキリスト教徒等によりこの様な立派な銅像が建立されたのは当然の報いなのかもしれない。

今は既に遺跡となっている聖ポール大聖堂、中国語では音読みして「大三巴牌堂」と表記されているが、その長い石段の上から下の商店街、日本で言えばさしずめ門前町に当たるのだが、狭い商店街には相変わらず大勢の観光客がこの街の特産品、「ビーフジャーキー」を買い漁っている。いやいや中国人の好きな「ポークジャーキー」だったり、イノシシ、鹿のジャーキーなども売られている。中国人のおおせいな購買力。飛ぶように売れている。

さて、その石段参道の下からタクシーを拾い、中国との国境「関門」に向かう。中国旧体字では「關閘と、日本語には無いような難しい文字を使うが、要はマカオー中国の国境のことだ。タクシーで凡そ15分程、着いてみると、又々中国らしいバカでかい建物があった。



マンゴージュースでも飲みながら、タクシーに乗ろう。
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大聖堂からはほんの10分ー15分で、中国国境に着いた。
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後ろはマカオの住宅街。中々立派なマンション群だ。
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さて、通関を済ませることしよう。
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ほー、巨大な建物だ・・、關閘邊險大樓、これもマカオ復帰後に建設されたと思われるが、中国らしい、随分と豪壮な建物だ。
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