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日々の連続

モラエスの故地を訪ねて(76)枕の部屋。

南越博物館の最初の部屋の出口付近に「中山王家」の解説文があり、この王家は漢の景帝の庶子が創始した河北省にあった王家、とのことである。
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英文でも解説されている。
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その場所は現在の北京近く石家荘付近の中山郡にあったようだ。
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その場所は現在の定州市。どうして華北の発掘品がここ広州で展示されているの?
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これがその王墓から発掘された壺だ。何に使ったのだろう・・
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専門家ではないので、深い詮索は止め、ロボット譲にお礼を言って、この部屋を出る。
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次の部屋が枕の展示。
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いやー、すごい数の枕が展示されている。
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武具、馬具、青銅器などが展示されている部屋の出口付近に漢代にこの地を支配した中山王家の解説が出ていた。当初、博物館の入り口に中山王家の系譜がでていて、中山、という中国語では比較的珍しい名称に、何か孫文、即ち孫中山との関係でもあるのかと、想像も巡らしたが、この解説を読むと、孫文とは全く関係なく、中山王家は紀元前の昔に、前漢の劉王家の系統だったということが分かった。

孫文は日本留学中にお世話になった日本人の名前、中山さんに感謝し、通称孫中山と称するようになった、と言われているが、この解説文を読むと、中山王家は、漢代の名家であり、孫文が中山と称した背景には、そうした歴史的な背景はなかったのか・・。確かに日本人の名前の中で、中山姓は多い方で、幕末の公家中山卿は明治天皇の叔父でもあるが、それ以上に中国人に取っては、「中山」(ちゅうざん)は、歴史時代に通じる誇り高い名称なのかもしれない。

数年前、南京郊外の孫文を祀る「中山廟」を訪問したが、殆ど全山がその霊廟の為に穿たれ、その規模の大きさ、雄大さには圧倒されたが、他に規模は小さくなるが、各地に「中山廟」ができていて、それは単に孫文を祀るというよりか、この古代の中山王家に一脈通じるものがあるのではなかろうか。

昨日、珠海から広州へ高速バスでやってきた途中、広州市に入る直前に中山市を通過したが、ここは孫文が生まれた場所で、孫文辛亥革命の後、中国の国父と呼ばれるようになってから、以前の鎮名が「中山」に変更されたが、鎮名変更の背景にも、そうした過去の記憶遺産がプラスαの要因として働いていたかも知れない。

さて、この解説を読んでいくと、「中山王家」はここ広州とも孫文の故郷とも全く関係ない、華北の地方にあった王家ということが分かった。紀元前154年、漢の景帝時代に、呉楚7国の騒乱を収め、庶子を中山郡に遣わせて中山靖王とした。以後、この地で王家は3系統に引き継がれ、17代280年に渡って中山王と称してきた。その隣にある地図を見ると、そこは現在の河北省、石家荘近くにある定州市で、ここに展示されているものは、そこの王墓から発掘された王及び妃(后)の副葬品とのことだった。

何で又北京近くの華北の地の発掘品が、遠く離れたここ広州の博物館に展示されているのか、又新たな疑問も湧いてきたが、当方学者でもなく専門家でもない。単なる旅行者で、たまたまこの博物館に入ったに過ぎない。深く詮索しても始まらない。室内をぐるぐる回って、最後に又やってきたロボット案内嬢に別れを告げて、次の部屋に向かうことにした。

と、そこは枕のみが展示されている部屋で、大商様々、いろいろな形と模様の石枕が陳列してあって、こんなに沢山の枕を一度に見たのは初めてだった。すべて、繊細に彫刻されたり、彩色されたりしている石枕。壺を見るのとは又違った芸術品を見ているようだった。



楊貴妃玄宗皇帝などもこうした枕で寝ていたのかなあ・・
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1日の三分の一が睡眠時間。枕は重要な調度品だ。
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枕の芸術品。しかし、石じゃ寝ずらいだろうし、頭が痛くならないか?
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仙境の図などが彫ってあるが、良い夢でもみれただろうか・・
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うーん、これ程の枕を一度に見た経験はない・・
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さしずめ、枕博物館だ。
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世の中は広い、中には枕研究科んどもいるだろう。
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当方、数年前に中国を旅行した時に買ってきたラテックスの枕で十分満足しているが・・
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