ちゃおチャオブログ

日々の連続

モラエスの故地を訪ねて(81)南越王墓の案内板。

王墓を発掘した現場跡。
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発掘状況を説明するパネル。ここは前室だ。
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遺骨とか見回り品の小物が出土された。
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王墓の状況が詳しく案内されている。
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この場所に左夫人の遺骨が納置されていたのか・・
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半世紀ほど前の紅衛兵旋風が吹き荒れていた頃の中国は、今のISと同じように、歴史建造物や、遺跡、歴史的価値のある物事は、すべて打ち毀しの対象で、何らの価値もおかれていなかった。時代が変わって、今では全く逆に、歴史的な物事を重んずるような国になり、自国の歴史を誇りとし、自慢もするようにもなってきた。世界有数の上海博物館など、殷墟以前の数千年前の石器から始まって、明清の高度に花開いた芸術文化を余すところなく展示し、世界に誇っている。造反有理、上を倒し、過去を壊し、歴史遺産をないがしろにしてきたこの国も、経済が隆盛し、人々が豊かになり、余裕も生まれてきたここ数年、自国に対する誇りと敬いの気持ちも生まれてきたのだ。

顧みて日本はどうか。過去奈良の天皇陵、石舞台、高松塚、その他の遺跡、古墳、御陵を見てきたが、こうした中国の現在の手厚い扱いと比べ、随分見劣りがする。幾つかの御陵を回ったが、そこはどこも「宮内庁所管」、「○○天皇陵」、「諱は○○」の杉板1枚が立てられているだけで、あとは、ぐるりと柵で囲われているだけ。わざわざ遠方から地図を頼りに探し当てた陵がこれでは感動も薄れる。石舞台など、これは御陵ではないから当然かも知れないが、芝草を刈った野辺に大石がゴロンと横たわっている、野外オブジェと見間違う程だ。高松塚など、その辺の雑木林で、4-5m程の盛り上がった小高い雑木林が、ここが高松塚、と案内板が建っていても、塚の中に入ることもできず、小山の上で地団駄踏む位が関の山だった。

それに比べ、中国のこの手厚い保護と環境整備はどうか。掘り当てた王墓をそのまま野ざらしにするでもなく、埋め戻すわけでもなく、こうした立派な博物館を建て、発掘現場はそのまま保存し、普通の人々にも理解できるように、発掘された穴の上には写真パネルを掲げて、説明をしている。これが学習であり、人々は知識を得、更に愛着を覚えるに違いない。日本の文化庁が今度霞が関から京都に移るという。箱ものだけが移って、中で働く文化行政を担う役人の意識も変わらなければならない。

地下の王墓から再び中庭に出て、出口に向かう。中庭の端にちょっとした物見台があり、珍しいので上がってみる。古い砲台の跡で、古い形式の大砲が数門置いてあった。ここも又城塞の一部だったのか。昨日行った越秀公園の裏の辺りに当たるだろう。広州は一番南方の海に面した都市。鄭和の大船団もここから船出して行ったのだ。



2000年前から王墓にはしかりと鍵が掛けられていた・・。
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想い空気から抜け出て、中庭に出る。こうして改めて見ると立派な博物館だ。
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中庭の奥に物見台のような高台があった。
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ああ、ここは砲台になっている。古い型の大砲が置かれていた。
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難しい文字だ、何て書いてあるのだろう。象の岡か・・。象・・、この町にも運ばれてきていたのか・・
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