地下鉄「記念堂」駅の改札付近には立体マップがあって、「中山記念堂」の場所は明確だ。
駅から直ぐの場所に「中山記念堂」はある。
「中山記念堂」、案外こじんまりした出入り口だ。
中に入ると敷地は大きい。中央のあの建物が「聖堂」か・・
入り口を入った直ぐの場所に資料館がある。その正面に立つ孫文像。
入り口の直ぐの場所に辛亥革命の功労者林森の写真が掲げられている。
中山記念堂は言わずと知れた孫文を記念する聖堂で、中国各地に同様の記念堂、記念碑が建立されているが、孫文の地元、広州ではその中でも最も規模の大きいものと想像し、やってきた。尤も、自分自身孫文がどこの出身で、どういう経歴だったのかは詳らかではなく、ほんの弐三、若い頃仙台に留学し、その後、清朝を倒した辛亥革命を主導し、結果、中華民国の成立となり、後年、「国父」と呼ばれるようになったこと位だ。
中華民国から共産中国になって、彼の評価はゼロに等しくなったかと思っていたが、数年前南京郊外の中山廟を訪問した時、立派な霊廟と沢山の観光客で溢れ返っていていたのを見て、彼の評価が再び高まったことを実感した。実際同じ場所を30数年前にも訪問したが、その時は丘の上に石碑があるのみで、観光客も殆どおらず、土産物屋も2軒程しかなく、そこで買った雨花石を今でも大事にしているが、その時静けさと比べ、昔日の感があった。その彼も今は国父であり、近代中国を切り開いた先駆者として尊敬されている。
地下鉄「記念堂」駅を出ると、直ぐ先に「中山記念堂」があったが、入り口はそれ程広くはなく、「あれ、こんなものか?」と思う程の簡素なものだった。が、門の中に入ると、流石に敷地は広大だ。入り口を入った直ぐの左側に小さな資料館があり、先ずは孫文に関しての基礎的知識を得ておこうと入った。しかしこの資料館は辛亥革命がなって後の記録写真で、彼の仙台時代とか、誕生の場所、中山村の幼児の頃の写真は皆無だった。主に重慶時代を中心にしたもので、重慶臨時政府と言うと、これは抗日戦当時のことになる。だが幸いなことに、ここには日本軍の残虐行為の写真とか、誹謗中傷する記事は無く、淡々と重慶時代の辛苦の様を写真で見せているだけであり、一人の日本人としては実際ほっとした。
重慶時代・・、日本軍が最初に行った航空機による本格的な爆撃攻撃、或いは中国空軍との空中戦、等々、飛行機フアンにとっては懐かしい地名だが、国民党軍も頑強に抵抗し、数次にわたる爆撃にも耐え、日本軍は重慶を落とすことはできなかった。ナポレオンのモスクワ遠征、或いはナチス軍のレニングラード攻防戦程の華々しさはないが、結局日本軍が重慶を落とすことができなかった結果、戦争はずるずると長引き、大東亜戦争の泥沼まで引き摺り込まれたことを思うと、この重慶攻防戦は日本軍にとっての継戦の岐路と思われた。
当時の軍部、大本営内に於いて、そうした作戦の要諦、早期終結乃至停戦を主導する指導者がいなかったのは、日本人にとっても、又多くの戦争被害国にとっても不幸であった。資料館の写真は、そうした主張は一切なく、淡々と国民党臨時政府の日々を伝えているだけだった。
中華民国から共産中国になって、彼の評価はゼロに等しくなったかと思っていたが、数年前南京郊外の中山廟を訪問した時、立派な霊廟と沢山の観光客で溢れ返っていていたのを見て、彼の評価が再び高まったことを実感した。実際同じ場所を30数年前にも訪問したが、その時は丘の上に石碑があるのみで、観光客も殆どおらず、土産物屋も2軒程しかなく、そこで買った雨花石を今でも大事にしているが、その時静けさと比べ、昔日の感があった。その彼も今は国父であり、近代中国を切り開いた先駆者として尊敬されている。
地下鉄「記念堂」駅を出ると、直ぐ先に「中山記念堂」があったが、入り口はそれ程広くはなく、「あれ、こんなものか?」と思う程の簡素なものだった。が、門の中に入ると、流石に敷地は広大だ。入り口を入った直ぐの左側に小さな資料館があり、先ずは孫文に関しての基礎的知識を得ておこうと入った。しかしこの資料館は辛亥革命がなって後の記録写真で、彼の仙台時代とか、誕生の場所、中山村の幼児の頃の写真は皆無だった。主に重慶時代を中心にしたもので、重慶臨時政府と言うと、これは抗日戦当時のことになる。だが幸いなことに、ここには日本軍の残虐行為の写真とか、誹謗中傷する記事は無く、淡々と重慶時代の辛苦の様を写真で見せているだけであり、一人の日本人としては実際ほっとした。
重慶時代・・、日本軍が最初に行った航空機による本格的な爆撃攻撃、或いは中国空軍との空中戦、等々、飛行機フアンにとっては懐かしい地名だが、国民党軍も頑強に抵抗し、数次にわたる爆撃にも耐え、日本軍は重慶を落とすことはできなかった。ナポレオンのモスクワ遠征、或いはナチス軍のレニングラード攻防戦程の華々しさはないが、結局日本軍が重慶を落とすことができなかった結果、戦争はずるずると長引き、大東亜戦争の泥沼まで引き摺り込まれたことを思うと、この重慶攻防戦は日本軍にとっての継戦の岐路と思われた。
当時の軍部、大本営内に於いて、そうした作戦の要諦、早期終結乃至停戦を主導する指導者がいなかったのは、日本人にとっても、又多くの戦争被害国にとっても不幸であった。資料館の写真は、そうした主張は一切なく、淡々と国民党臨時政府の日々を伝えているだけだった。