ちゃおチャオブログ

日々の連続

モラエスの故地を訪ねて(90)広州・三元宮。

今でも巨人軍は宮崎でキャンプしているかどうか知らないが、宮崎でキャンプしていた当時、その初日には必ず青島神社にお参りに行っていたが、青島は、この蒲葵(ほき)、ビロウ樹で覆われていた。ここ中山記念堂にも沢山の蒲葵が自生していた。南国の木だ。
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柳田国男だったか、誰だったか、日本書紀の中の朝廷内での蒲葵の神事に言及していたが・・
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中山記念堂からは道路を渡った先に三元宮がある。
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ここは広州で一番古い道教の寺院(宮観)だ。
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門を入ると幅広の石段があり、その奥に三元宮がある。
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大正の初め、辛亥革命が勃発した頃、モラエスは神戸でポルトガル領事をしていた。当時マカオポルトガルの極東に於ける最重要な植民地であり、彼の前任地、副司令官でもあった。海軍軍人として彼の血も騒いだことだろう。

しかし新田次郎の「孤愁(サウダーデ)」にはその間の経緯は述べられていない。革命の翌年妻のおヨネさんが亡くなり、その後彼は領事を辞めて徳島に移り、昭和4年(1929年)に75歳で亡くなるまでの約10年、この地で余生を送り、孤独に死んでいった。隣国中国の事、前任地マカオの事、等々我関せずの晩年で、故郷のリスボンはおろか、マカオ、東京にも出かけずに、徳島の地で孤塁を守っていた。激動の20世紀は彼にとっては無縁のことだった。

革命の獅子孫文を記念する御堂を出て、次に三元宮に向かう。ここからは目と鼻の先、200mも離れていない。この辺りは広州の旧市街、最初に街ができた頃の中心地で、これから向かう三元宮、昨日訪問した光孝禅寺、それから今日の午後訪問する予定の六榕寺、等々、すべてこの越秀区に集中している。観光するには効率的だ。

道路を渡った先に道観の入り口が見え、如何にも中国人が好みそうな古びた感じだ。ここは広州の道教の中では一番古く、規模も大きいと言われている。この寺院の裏側が昨日歩いた越州公園で、巨大な樹木がへばり付いている城壁の横の小径を下って来ると、この宮観の裏に出る。昔は全体が一体になっていたのだろう。

幅広の長い石段を登った正面に三元宮がある。道教でいう三元とは天・地・水、の神であり、この三元宮は、その三神が祀られている。先ずは三元にお参りし、宮観を観光することにした。



さて、山門を入っていく。
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三元宮。天地水の三神が祀られている。
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正面の大きな香炉。
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香炉の前にはおまじないのような捧げものがある。この花はプリメーラか・・。
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道教の薬だ。
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道教三神。
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