ちゃおチャオブログ

日々の連続

モラエスの故地を訪ねて(101)黄埔軍官学校へ。

六榕寺出口には立派な土産店があった。
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寺を出た直ぐ正面には大きな門扉と壁で囲われた将軍府がある。
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清の時代に、有名な将軍がここを府にしていた「ようだ。
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通りの名前にも「将軍東通」の名前が付けられている。
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地下鉄「公園」駅に着いた。このビルの2階は証券会社、投資会社になっている。
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歩いて喉が渇いた。お茶を飲もう。中国でよく売られている「賀多寶」。「ガタピン」と呼ぶのか・・
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この町へ来て、黄埔軍官学校へ行かない訳には行かない。今まで何回となく上海を訪問し、ツアーのガイドやホテルのフロントにこの学校の所在地を聞いても誰も知らない。それは上海の目の前を流れる大河、黄埔江から取った名前の学校名で、この川に面したイギリスかフランスの租界地のどこかにあった筈だと思って聞いたのだが、地元の人は誰も知らない。戦前の軍官学校で、国民党が台湾へ逃げ去った後に学校は壊され、その跡地に石碑程度のものしか残っていないのなら、上海の人が知らなくても当然だ。この学校を訪ねようと思い、所在を聞いたのは上海通いを始めた当初の2-3回で、誰も知ることもなく、従って自分の頭の中からもいつしか消え去っていた。

処が今回広州を訪問するに際し、ガイドブックを見ていたら、その黄埔軍官学校は何と、この広州にあるではないか! 上海ではなかったのだ! だったら上海の人が知らなかったのは当然のことだ。・・成程、そうだったか・・。名前からしてこの学校は黄埔江の流れる上海にあったとばかり思っていたが、それは間違いだった。この学校の創立者孫文であり、昨日、珠海から高速バスに乗って広州にやって来た途中、孫文の生まれた中山市を通過したが、孫文が作った学校なら、上海ではなくここ広州にあっても不思議ではない。よもや、黄埔という名前の学校が上海以外の場所にあるかも知れないとの思いに至らなかった自分の頭の回路がどうかしていたのだ。

ガイドブックを見るとその学校は珠江の中州にできた大きな島の中にあり、今そこは島全体が広大な大学施設になっていて、広州大学城と呼ばれている。広州一の広州大学、中山大学初め、体育芸術工学医学その他各種の大学、専門学校が集中して集められていて、従って「大学城」と呼ばれているのだ。これから地下鉄に乗って、その大学城へ行くことにしよう。

由緒ある六榕寺を見終え、出口に土産物店、中国語で「法物流通処」と書いてあるが、多分それは「仏法僧」の「法」のことに違いなく、そうであれば宗教関連の仏具等を販売する店で、自分には用は無く、そのままパスして表に出る。出た正面に「将軍府」という麗々しい門扉があり、それは固く閉ざされていたので、その解説文だけ写真に撮って、地下鉄駅に向かった。ここから大学城までは地下鉄を二つ乗り換えて行くのだが、困った・・。大学城には北と南の二つの駅があり、どちらで降りてよいのか分からない。取り敢えず先の方の「大学城南駅」まで行き、そこから歩いて行くことにしよう。




地下鉄駅への階段。身障者用のリフトも設置されている。日本と同じだ。
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地下鉄車内で。子供も可愛い。
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地下鉄ホームで。乗り換えする乗客。
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自分もこの駅で別のラインに乗り換える。
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大学城南駅で下車し、地上に出たら、正面に「黄埔軍校旧趾」の看板が出ていた。ここに間違いない。
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