ちゃおチャオブログ

日々の連続

モラエスの故地を訪ねて(103)黄埔軍官学校旧址。

ここ黄埔軍官学校旧址は現在は海軍の施設になっている。
イメージ 1




構内案内が出ている。軍校旧址は矢印の方向だ。
イメージ 2




ただ、余り使われていないようだが・・
イメージ 3




ああ、これは随分縦長の建物だ。何かの工廠のようだ。
イメージ 4




これは士官宿舎か・・。
イメージ 5





黄埔軍官学校。この名前を聞いたのは、かれこれ30-40年程前になるだろうか。あれは確か司馬遼太郎の何かの本の中だった。街道を往く、の中国編、上海蘇州江南の道、だったか・・。確かそこにはこの学校の優れた業績が書かれていて、辛亥革命の後、ソ連の援助を受けて孫文がこの学校を設立し、初代校長に蒋介石が就任した。当時の日本の士官学校に比せられるもので、多くの軍人指導者を輩出した。その後の日中戦争国共内戦、共産中国樹立に活躍した面々である。

司馬の本の影響だったのか、この学校は黄埔江のある上海にあたっとばかり思っていた。実際、今回初めて広州を訪問するときまでこの学校が広州郊外にあるとは全く想像もつかなかった。毛沢東の出身が湖南省とはしていたが、孫文の出身は大よそ上海辺りの江南地方とばかり思っていた。それは蒋介石が南京出身からきている同類項との誤認識もあったかも知れない。

考えてみれば、今回初めて珠海から広州に高速バスで来て、途中中山市を通過し、ハタと孫文の生まれ故郷を思い出したのだが、そうであれば、この学校が孫文の故郷、広州に設立されたのは理に適うことだった。

ここは元々は海軍の施設で、珠江に面して軍港でもあったのだろう。今でも一部小規模な軍港として使用されているようだ。そんな感じの海軍施設が道路の両側に散見される。300m程進んだ正面が川に面する小公園になっていて、その正面に記念館が建っていた。大正末期、昭和初めの建物としては、中々立派なものだ。ここで孫文蒋介石は、中国を列強の歯牙から守るため、更には列強に対抗するため、若きエリートを教育し、新生中国の国造りを始めて行ったのだ。中国に於ける松下村塾。或いは三田山上の福沢諭吉演説館か。中に入りたかったが、既に夕方の閉館時刻になっていて、外から外観を眺めるに留まった。



高台の建物は、士官クラブだったのか??大分傷んでいるようだが・・
イメージ 6



広い通りを真っすぐ行くと、海軍の立ち入り禁止地区になった。
イメージ 7



柵越に艦船も見える。
イメージ 8



河港の軍港だ。
イメージ 9



ここが黄埔軍官学校の記念館になっているが、夕方の時間で、既に閉館となっていた。
イメージ 10



これが当時の教室の一部?
イメージ 11