ちゃおチャオブログ

日々の連続

モラエスの故地を訪ねて(129)レパルスベイにて。

樹林の先にレパルスベイの海が見える。
イメージ 1



タイとは違って、海水浴客は少なく、静かな浜辺だ。
イメージ 2



自分も裸になってひと泳ぎする。
イメージ 3



Repulse Bay、戦前の重巡レパルスを連想する。
イメージ 4



ここは今現在、香港の高級リゾート地になっている。
イメージ 5




島を一周する道路が一本しかない香港リゾート地で車が一歩も前に進まない大渋滞に巻き込まれ、大分時間をロスしたが、香港の中心街・銅鑼湾からは丁度反対側にあるレパルスベイに漸く着くことができた。後から思ったが、バスを降りて途中から歩いた方が余程か早かった。先日ビクトリアピークへ行った時もそうだったが、渋滞がこれ程ひどいとは全くの予想外だった。50年前、初めて香港にやって来た時、先ず最初にビクトリア山に行き、次いでこの島の裏側の浜辺にやってきたが、その時は勿論渋滞もなく簡単に来れた。島自体の大きさは八丈島程度であり、学生の頃、ネギさん達と八丈へ遊びに行き、レンタカーで島を1周したが、1時間も掛からずに1周できた。渋滞さえなければそんなものだろう。優秀な香港行政府のことだから、何か目から鱗の解決策を考えているとは思うのだが・・。

松林から見える海は、いつも見慣れたタイの浜辺と違って、先刻見たスタンレー同様、ここも又海水浴客は極端に少ない。今は10月だが、緯度的に台湾よりは南に位置しているこの浜辺はオフシーズンとは言えず、Breeze,真夏の真っ赤に燃え滾る暑さはなく、ほど良い初夏の気持ち良い気候で、湿気もなく爽やかだ。何人か水遊びしている家族もいて、自分もパンツ1枚になって海に入る。水温も暖かく、この浜辺の中国名「浅水湾」の名前のごとく、20m-30m先の沖合に行ってもまだ背が立つ程の遠浅の海だ。沖合に浮かぶブイまで行って、泳ぎ休みし、戻ってきた。前2回ここへ来た時は、単に海を眺めただけだったが、今回初めてレパルス湾を泳いだ。

Repulse.誰の名前を取ってこの浜が名付けられたのかは自分は知らない。だが、75年前の日本人にとってこの名前は鮮明に記憶している。それは太平洋戦争が始まった直ぐの頃。Royal Navy,英国海軍の誇りとする最新鋭艦、BS Prince Of Wales とその随伴艦、Repulseが帝国陸海軍航空隊の猛攻により、マレー沖で海の藻屑となったことであり、東京初め各都市では祝賛の提灯行列が行われたのだ。
同時にここ香港では、開戦直後に日本軍が進駐し、ビクトリアピークの山頂に旭日旗がはためき、相前後してシンガポールも陥落し、アジアに於ける大英帝国の最大拠点を手中に収めることにより、今次戦争は大日本帝国の勝利を国民誰しも疑わなかった。東郷平八郎を始めとする英国海軍の伝統を引き継いだ帝国海軍は、戦いの場に於いて見事に恩返しできたのだったが、撃沈された2鑑の海に漂う将兵を一人一人救助した帝国海軍の武士道の精神は、敗戦後も長らく世界の人々の賞賛の的だった。Repulse Bayの浜辺を泳ぎ、そうした戦時中の出来事なども去来した。

自分は戦後生まれで、戦争の経験は全くないが、戦後直ぐの出生で、幼少期まだ周囲には傷痍軍人、引き上げ兵、防空壕、退避壕、高射砲陣地、等々、戦争の名残を残すものも多く、周りも又軍国少年なども沢山いて、戦争ごっこなどをして遊んだりしていたが、年が嵩み、戦記物などを読むうちに戦艦プリンスオブウエールズ及び重巡レパルスとの航空戦を知り、当時まだ大学生だったが、香港へ来たら、このレパルスベイへ来てみよう、と思っていた。しかしその時も今も、ここは浜辺のリゾート地に過ぎず、重巡レパルスに結び付ける何物もなかった。だが、それでも良かった。Repulse.という名前を口ずさむだけで、遠い昔の記憶を呼び起こすこともできたのだ。



神奈川、湘南・三浦地方と比べても、こちらの方が格段にリッチだ。
イメージ 6



大型2階建てバスが香港銅鑼湾から直通でやってきている。
イメージ 7



海に面したこのコンドミ、いったい幾らで売りに出ているのだろう・・
イメージ 8



香港人の日本人以上に贅沢でリッチな生活。
イメージ 9



うーん、羨ましい限りだ。レパルスに思いを馳せ、この浜辺を後にする。
イメージ 10