ちゃおチャオブログ

日々の連続

薩摩・大隅の旅(9)城山を下る。

展望台の横には桜島の案内板も出ている。
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又その直ぐ上は高台になっていて、西郷軍の指令所跡だ。
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何を祀るか石仏も建っていた。
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城山全体は史跡・自然公園のように整備されている。
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西郷自刃の洞窟跡は後回しにして、先ずは鶴丸城址に向かって下り降りる。
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既に12月も中旬だが、いまだに紅葉が綺麗だ。後ろのイヌマキも大木だ。
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城山は全体が史跡、自然公園のように整備されていて、山中には幾通りかの遊歩道が作られている。その内の一つが山頂からまっすぐに西郷自決の洞窟まで下り降りる林道だが、今回自分は洞窟は後回しにして、表側の林道を下って、鶴丸城址を通り照国神社へ向かうことにした。薩摩藩鶴丸城は今はないが、幕末ここから天璋院篤姫は将軍家に輿入れし、そして何よりもここからは西郷を始めとする東郷、大久保、大山、樺山等々の明治の元勲が巣立っていったのだ。あそうそう、もう一人忘れてはならない人がいた。ついこの間NHK朝の連ドラ「マッサン」に出演してた大阪経済界の立役者五代友厚もここの出身だった。

城山展望台の直ぐ上には、この小山の山頂、当時の言葉で言えば反乱軍の指令所が置かれ、そのすぐ下の麓の鶴丸城では官軍反乱軍の同じ薩摩人同士の血みどろの戦いが繰り広げていた。明治の新政府が誕生して10年、新政府に不満を持つ旧氏族の反乱が各地で発生したその最後の戦いが西郷の乱、西南の役だった。鶴丸城を発進した西郷軍は意気軒高に北上したが、谷干城の堅守する熊本城を落とすこと適わず、迂回する形で福岡に向かったが、田原坂に於いて官軍の激しい反撃に遭って退却の余技なきを得ず、人吉の山中をさ迷った挙句の二カ月余の逃避行、ようようにして鹿児島に逃げ帰ることができた。が、一カ月余の攻防戦の末、賊軍は遂にはこの城山に追い詰められ、西郷もその最後の朝この山で自刃した。最期の朝、この高台から鹿児島の町、錦江湾桜島をいか様に眺めたであろうか。

森の小径を歩く人など誰もいない。皆、バスか車で山頂直下の駐車場までやってきて、5分のアスファルト道を上り、展望台に10分佇み、又4分で山を下りバスに戻る。誰も上り下りしない森の小径を一人歩く気持の良さ。この山道を駆け抜けていた明治10年の薩軍、官軍の将兵。当時の喧騒、銃弾、咆哮が木々の間から聞こえてくるようだ。いや、そんな美的なものでは決していない。二十歳に満たない少年兵。血生臭い臭いが充満し、阿鼻叫喚と野垂れ死ぬ屍。江戸城無血開城を果たした西郷も、いざ自身の最期となると、そこまでは思い至らなかったのか・・。雑木林を圧倒するイヌマキの大木はその地獄絵を見続けていただろう。

こんな山中にどこからやってきたのか、可愛い三毛猫が、何かの野鳥を狙ってか山道の横に身構えている。野良猫ではなく飼い猫のようだ。100m程度の小山だから民家にも近いのだろう。そうこうする内、「近衛の水」の遺構へ出てきた。江戸時代末期の頃の水道事業で、ここを水源として上水道を整備し、城下に給水していた。江戸時代後半、島津重豪以降の薩摩藩の先進性がこんな場所にも見られたのだ。



林間から時々市内、桜島も見えてくる。
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ああ、可愛い三毛猫が何でこんな山中に?
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何かの小動物を追って、こんな山中に迷い込んできたのだろう・・。
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山中にはいろいろ西南戦争に纏わる史跡等も残されている。
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ああ、これは近衛の水。水源だ。
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既に江戸時代薩摩藩では上水道が整備されていた。殖産興業が実を結んでいたのか・・。
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今も尚こんこんと清水が湧き出ている。
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