西郷墓地の右奥には南洲神社がある。
過去の今もこの先も県民から敬愛されている西郷どん。
西南戦役で没した西郷隆盛を始めとする2千有余名の御霊を祀る墓地の右の奥手に南洲神社がある。南洲とは西郷隆盛の雅称であり、この神社は隆盛を祀る神社として彼の没後に建立された。いつの創建かは知らないが、新政府に対する賊軍の汚名が返上され、彼の名誉が回復した後のことと思われる。
幕末から明治にかけ、各地に偉人、英雄が輩出したが、そんな中で、死後神様と崇められ、神号まで与えられて神社まで建てられた例は数少ない。自分の知る限りでは3人で、その内の一人は先刻参拝した照国神社の祭神島津斉彬公であり、他の一人は今将に参拝する西郷隆盛、南洲神社である。もう一人は長州萩の吉田松陰。彼の私塾松下村塾の松林の中に松陰神社が建っている。余談になるが、30数年前、境内のすぐ前の土産店で買った萩焼の湯飲みは、今でも毎日使用している。時々は萩のこと、私塾のこと、松林のことを思い出しつつお茶を飲んでいる。
社殿の正面には西郷南洲のいつも見慣れた薩摩のおいどんの顔写真が掲げられ、その横に座右の銘「敬天愛人」の額が掛かっていた。南洲自身の自筆による太くて黒々とした力強い筆致だ。将に天の命ずるまま運命に従って従容と生き、隣人、藩と国人、国家を愛していた。北村西望の成す上野公園の犬を引き連れた純朴の銅像と同じに、慈愛の深い、心の深い顔立ちだった。
神社の前には丁度沖縄摩文仁の丘の礎(いしじ)と同じように、西郷に従った6千有余名の将兵の名が刻まれている。見ると将兵は広く薩摩大隅日向の各国元、各藩から集められた健児で、この神社もそうした遺族の総意により建立されたものだろう。明治の初め、国の方針と意見を異にし、新政府に反抗する形で決起したが、その意図するところは国を思い、行く末を案じての旗揚げであって、名誉は早晩回復されるべきものだった。
琉球語では碑をいしじと呼ぶが、薩摩方言では何と呼ぶのか・・。藩別、郷別、氏族別に刻字された墓碑を一渡り眺め、墓地の奥の宗林を歩いてみることにした。
幕末から明治にかけ、各地に偉人、英雄が輩出したが、そんな中で、死後神様と崇められ、神号まで与えられて神社まで建てられた例は数少ない。自分の知る限りでは3人で、その内の一人は先刻参拝した照国神社の祭神島津斉彬公であり、他の一人は今将に参拝する西郷隆盛、南洲神社である。もう一人は長州萩の吉田松陰。彼の私塾松下村塾の松林の中に松陰神社が建っている。余談になるが、30数年前、境内のすぐ前の土産店で買った萩焼の湯飲みは、今でも毎日使用している。時々は萩のこと、私塾のこと、松林のことを思い出しつつお茶を飲んでいる。
社殿の正面には西郷南洲のいつも見慣れた薩摩のおいどんの顔写真が掲げられ、その横に座右の銘「敬天愛人」の額が掛かっていた。南洲自身の自筆による太くて黒々とした力強い筆致だ。将に天の命ずるまま運命に従って従容と生き、隣人、藩と国人、国家を愛していた。北村西望の成す上野公園の犬を引き連れた純朴の銅像と同じに、慈愛の深い、心の深い顔立ちだった。
神社の前には丁度沖縄摩文仁の丘の礎(いしじ)と同じように、西郷に従った6千有余名の将兵の名が刻まれている。見ると将兵は広く薩摩大隅日向の各国元、各藩から集められた健児で、この神社もそうした遺族の総意により建立されたものだろう。明治の初め、国の方針と意見を異にし、新政府に反抗する形で決起したが、その意図するところは国を思い、行く末を案じての旗揚げであって、名誉は早晩回復されるべきものだった。
琉球語では碑をいしじと呼ぶが、薩摩方言では何と呼ぶのか・・。藩別、郷別、氏族別に刻字された墓碑を一渡り眺め、墓地の奥の宗林を歩いてみることにした。
各藩、各郷から参集した兵子、健児の名前が刻まれている。
出身地別、名前別に6755名の名前が刻まれている。
神社の中には戦争当時の鹿児島市内の写真が掛かっていた。
親しみがあり、奥深い西郷さん、西郷どん。左右に桐野、篠原を従えている。