ちゃおチャオブログ

日々の連続

薩摩・大隅の旅(17)世界遺産「集成館」。

City Busを降りた正面には鶴嶺神社がある。
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ここは歴代薩摩藩主を祀る神社だが、歴史は意外に新しく、明治になってからの創建だ。
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神社の左側には去年世界遺産に登録された集成館がある。
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幕末、日本の夜明けを担った一つの記念すべき場所だ。
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尚古集成館。当時の記念館、土産店にもなっている。
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明治日本の産業遺産としてここ集成館が世界遺産に登録されたのは去年の事だ。長崎沖の高島鉱・端島軍艦島)とかグラバー邸は大きくニュースで取り上げられて、多くの人の知るところとなったが、ここ集成館や天草の三角港も同時に登録されたが、殆どニュースにも取り上げられず、知る人は少ない。鹿児島市内にもそうしたお目出度Huppyの宣伝広告などはなかった。

ホテルのある天文館から市内観光バスCity Tourでやってきたが、夕方近くで訪れる人も少なく、又、バスを降りてからも世界遺産登録を宣伝するような幟もなく、知っていなければここが世界遺産の場所とは気が付かないだろう。当方がここへやってきたのは、世界遺産もさることながら、幕末の薩摩藩の富の源泉、殖産興業の跡を見たかったのだ。それと仙巌園天璋院篤姫がまだ篤子と呼ばれていた幼少時、この近くの浜御殿で過ごしていた。その浜辺と正面の桜島を見たかった。

世界遺産の登録に備えてか、集成館の周辺全体は綺麗に環境整備されていて、外から眺めただけでも如何にも展示館、パビリオンのようになっている。幕末・明治期の最初の時代にはもっと貧し気な、貧弱な様相だったと思うが、今は観光客用である。バス停の正面に古びた神社があるが、これは鶴嶺神社で、島津家歴代の藩主を祭神としている。由緒ある古びた感じの神社であるが、創建は明治になってからであり、薩長が天下を取って以降のことだ。

集成館、現在の正式名称は尚古集成館と呼ばれているが、幕末、斉彬公により近代産業、工業化の必要に迫られ、機械工場、造船工場としてスタートしたが、その直後に薩英戦争により艦砲射撃で灰塵に帰し、講和条約成って以降再築されたものである。ここにも反射炉があり、自分の知る限り、幕末の反射炉は全国でも3か所で、その一つは韮山代官江川太郎左衛門と、毛利の萩のものだった。長州も又馬関海峡で英仏等の4国連合に戦いを挑んだが、僅か1日の戦闘で砲台が占拠され、当時の西欧列強との力の差は歴然だった。

綺麗にお化粧直しされたそれ等の記念館、尚古館を外側から眺め幕末の列強何するものぞ、との薩摩隼人の心意気を感じる。薩長この2国がいち早く西洋の技術を取り入れ、藩を富ませ、且つ列強に戦いを挑む。この間、坂本龍馬海援隊を組織し、いろは丸を操船して長崎、鹿児島、馬関、三田尻等々、全土を股にかけて縦横に活躍していた時代が偲ばれる。先年、高千穂山に登った時、竜馬と妻お龍が日本人の最初の新婚旅行先がこの山だった、との碑が山頂直下に建っていたが、丁度この頃か・・。

神社を挟んで反対側には仙巌園がある。久光公が作った国の名勝だ。時間が遅く中には入れなかったが、まあ、名園はあちこちで見ているから、オミットしても良いだろう。それよりかこの苑の前の水辺から桜島が目の前に大きく見えている。ここからは僅か数キロの距離だ。篤姫が幼少時今和泉家浜屋敷で毎日この山を眺め、育ったのはこの辺りだ。山は今将に夕日を浴びて赤く染まっている。この山を見ていると、何故か懐かしくなってくる。



この奥に反射炉跡がある。
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神社の右手には国の名勝庭苑、仙巌園がある。
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この前は昔は浜辺になっていたが、今は国道が走っていて、海には出られない。国道越しに桜島が夕日に燃えている。
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赤富士ならぬ赤焼けの桜島
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陽は沈み、山は再び自然の黒山に戻った。篤姫もこの山を見て育たのだ。
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