ちゃおチャオブログ

日々の連続

薩摩・大隅の旅(43)知覧特攻会館前の特攻機を眺め、武家屋敷に向かう。

この知覧特攻記念館の前には数機の特攻機が展示されている。
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プロペラ機で、今の最新鋭のジェット機と比べるとダサいおのだが、当時にあっては、最も優れた飛行機だった。
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戦史好き、飛行機好きの人にはたまらない展示だろう。
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この銅像? これは実在する飛行兵ではなく、「とこしえに」に言う、理想像のようだ。
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又別の団参がやってきた。そろそろ次に向かおう。
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知覧特攻会館の横には三角兵舎や護国神社観音堂などもあるが、より多く目を引くのは飛行機である。当方、飛行機や鉄道に詳しくなく、と言うか殆ど無知で、これ等屋外に展示されている飛行機を見ても、機種、用途等を言い当てられる訳ではないが、一つだけ言えるのは特攻機という事だった。敗戦だからと言って、日本の空から飛行機が一機も消えて無くなった訳ではない。話はこの知覧訪問の半年後の先月になるが、奥多摩を登山していて、終戦から1週間程の直前、浜松を飛び立った大型双発爆撃機「飛龍」が熊谷に向かう途中、この山中に墜落したとの案内板を見たが、成程、終戦間近でもまだこの様な大型爆撃機が温存されていたかと、感心したのだった。

その飛龍に限らず、今ここに展示されている陸軍特攻機も各地の基地に温存され、米軍上陸の際には一矢を報いるべく、手ぐすね引いて待っていたのかも知れない。敗戦によって一旦はバラバラになった帝国陸海軍も、自衛隊と言う名称のもとに組織が再編され、それと共に、過去の悲劇を繰り返してはならないとの反省、又、選択の余地なく国家に殉じた若人の顕彰の為にも、僅かに残存していた特攻機をここに集め、広く後世への教訓としているのかも知れない。

展示されてる飛行機の正面に飛行服を着た銅像が立っている。・・誰だろう・・。特攻隊員の中で顕彰すべき人でもいたのか・・。よく見るとそれは実在の飛行兵ではなく、「とこしえに」と言う抽象的な、理想像的な銅像だった。「神風特攻隊」は世に広く知られているが、それは主に鹿屋の海軍特攻隊を指していて、ここ知覧では「振武隊」と呼ばれていた。或いは「神武」と呼ばれていたかも知れない。

現代のTop Gunの映画に出てくるような最先端のジェット戦闘機と違って、プロペラ羽根の如何にも前世紀の遺物なような飛行機ではあるが、彼等は意気揚々と、或いは意気消沈し、最後の気力を振り絞って、南海の戦場へ飛び立って行ったのだ。これから又順々にやってくる団参グループを尻目に基地を後にし、知覧の町へ向かった。基地自体は高台の台地の上にあり、だらだら坂を下って行ったところが知覧の旧市街だが、多分この台地は戦時中、飛行機が飛び立ち易いように、小山を削って、平らな飛行場にしたに違いない。

旧市街と言ったが、ここ知覧は薩摩藩の有力な支藩だった。薩摩藩は本家薩摩家を中心にその姻戚を各支藩の藩主に据え、中でも有名なのは佐土原藩で、おスタちゃん事島津貴子さん、彼女は昭和天皇内親王であったが、この島津佐土原藩の血筋を引く島津氏に嫁ぎ、皇籍を離れたものであった。ここ知覧の藩主も対外貿易、琉球を通じての密貿易等で財政豊かであり、当時の裕福な武家屋敷の町割りは現在に保存されている。

たかが街並みを歩くのに、入場料を取ったりして、当方時間もなく、又、入場料を払ってまで、武家屋敷を歩く積もりもなく、外側から眺めて通り過ぎただけだったが、旧友のネギさんはツァーで行ってここを歩き、猫好きの彼が、石垣の合間からゴロゴロ喉を鳴らしてやってきた三毛猫に痛く気に入ったようで、この武家屋敷のことが強く印象に残っているようだった。



次に知覧の旧市街、武家屋敷を通って、鹿児島に戻ろう。
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薩摩藩の有力支藩、知覧藩の武家屋敷だ。
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古い町並みが、綺麗に保存されている。
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ネギさんが観光でこの武家屋敷を歩いていたら、可愛い三毛猫に出会ったとか・・
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さて、当方武家屋敷の散歩は止めて、真っ直ぐ鹿児島に戻ろう。途中でどんなアクシデントに遭遇するかも知れない・・
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