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日々の連続

薩摩・大隅の旅(46)甲突川添いの西郷生家。

甲突川沿いは、幕末明治期の建物等を再築した歴史遊歩道になっている。
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江戸時代の武家屋敷なども再現されている。
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薩摩藩城下図。城山を中心に町が広がっている。正面が鶴丸城。右手に篤姫の生家、今泉家がある。
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歩いていると牛島満の石碑などもあった。沖縄戦の司令官だ。鹿児島の出身とは聞いていたが、彼も又ここ甲突川域だったのか・・
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土手のすぐ下に西郷隆盛生家跡がある。
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徳川270年の太平の夢をうち破った薩長土肥。その中でも坂本龍馬の活躍により手を結んだ薩長同盟がその大きな原動力となった。薩摩と長州、日本の開国、近代化に大きな貢献を果たした両藩だが、そのどちらの藩がより多くの功績を果たしたのかは、当方には分からない。ただ言えることはそれまでの長州は云わば賊国のような立場で、公家との結びつきは強かったが、徳川幕府からは疎んじられていた。一方の薩摩は、篤姫に見るように徳川宗家の外戚として、幕府内にも強い影響力を持っていた。討幕軍が鳥羽伏見の戦いで勝利し、総大将に任じられた西郷が破竹の勢いで東上した処を見ると、軍部の主導権は薩摩が握っていたように思われる。

処が明治新政府になって後の、西郷の反乱と自決、大久保利通の暗殺等々、新政府内の薩摩の地盤沈下は著しく、結果、長州が政界も軍部も圧倒するようになり、明治維新から150年経った今もその影響は現在に及び、全国47都道府県の中で、人口及び経済力から言えば、下から数えた方が早い方の山口県が、圧倒的に多数の総理を輩出している。戦後の今も長州閥があるのかどうかは知らないが、戦前には明らかにそれがあった。未だに総理を出していない県が全国で半数近くあることを思えば、それは圧倒的で、明らかに優位性があった。

薩摩の、ここ甲突川添いのプロムナードはそうした幕末明治初期の薩摩藩士のパノラマを再現したようなレイアウトになっていて、ぶらぶら散歩するにはぴったりの場所だ。所々には解説案内板も出ていて、時間がある人なら、歴史の勉強にもなる。薩長と言うように、薩摩にも長州に劣らない偉人、賢人が出ていて、新時代に向かっての熱気のようなものを感じることもできる。

このプロムナードの中程に西郷生家跡が綺麗に保存されている。場所的には鶴丸城址から大分離れた場所にあるから、矢張りこの辺に住んでいた武家は下級武士だったのだろう。隆盛の弟、従道は海軍畑で西南戦役には参加せず、隆盛亡き後も海軍内で地歩を固め、遂には元帥まで上り詰めたが、その生家跡の隣に家を造り、一時期ここにも住んでいたようだから、この場所がこうして後世にまで残されたに違いない。陸軍の長州と海軍の薩摩。そう言えば軍神東郷平八郎も薩摩の出身だった。そんな激動の明治期を思い出しながら、この川沿いの遊歩道を歩いた。



今は建物は取り払われ、石碑しか残ていない。
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日本の近代の夜明けを切り開いた人物だが、後年賊軍となって、高くは顕彰されなかった。
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弟、従道の住居跡も隣にあった。
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後年、彼は海軍で重きをなし、元帥にまで上り詰めた。
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西郷隆盛、メドウサ、ならぬウドメサアの意味が分からないが・・。薩摩方言か?
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