ちゃおチャオブログ

日々の連続

薩摩・大隅の旅(47)歴史遊歩道を歩き空港へ。

甲突川の護岸は歴史遊歩道になっている。
イメージ 1



藩主斉彬公が取り入れた時刻と暦。
イメージ 2



斉彬公の業績が称えられている。
イメージ 3



維新の元勲。西郷と大久保。
イメージ 4



川のほとりからは鹿児島中央駅の回転展覧車も見える。
イメージ 5




甲突川の護岸は歴史遊歩道になっていて、幕末明治の偉人の銅像や、先に見てきた様に西郷隆盛の生家跡や、開明の藩主斉彬公の行った時計の事業、明時館(天文館)などの解説や模型なども作られている。この藩が幕末明治期、いち早く西洋の進んだ科学技術を取り入れ、国を興すことに熱心だったことが容易に観察される。薩英戦争の後、英国の圧倒的な力を現実に知り、薩英同盟を結んで、フランス軍に後押しされた幕府軍を破ったのは良く知られた歴史事実であり、それ以上に特筆すべきは幕末既に多くの青年武士を香港の商社を通して英国に留学させていたことである。江戸幕藩300諸侯の中で、長州と並んで、最先端の藩であった。

鹿児島のメインの通り、電車通りに架かる月見橋には2体の銅像が置かれている。一体は大久保利通公で、もう一帯は篤姫。鹿児島へ来る直前、宮尾登美子天璋院篤姫を読んだことを思い出す。徳川将軍家に嫁ぎ、幕府崩壊を目の当たりに見、明治の半ばまで生き永らえた。一方の大久保公、明治の元勲であり、新政府を引っ張って来た立役者の一人だったが、西南戦争の数年後、暗殺されてしまった。享年47歳、西郷よりも歳若だった。もし西郷、大久保の二人が非業の死をせず、明治大正期を生き抜いていたら、日本の歴史はどのように変わっていただろうか・・。しかし歴史にはIFはない。日清日露の大戦を経て、日本は軍国化の道を進み、結果、維新から70年後、戦争に敗れ破滅した。しかしその敗戦から70年、日本は又見事に復活し、世界をリードする一国になっている。仮に二人が歳半ばで死亡せず、余生を全うしたとしても、日本のこの近代の歴史は左程変わっていなかったかも知れない。現状肯定しかないのだ。

橋の袂から鹿児島中央駅ビルの上の観覧車が見える。この電車通りをそのまま真っ直ぐ歩いていけば、4-5分で駅に出る。もうそろそろ良い時間になってきた。空港リムジーンバスに乗って、飛行場へ行こう。一昨日正面に見えた高千穂峰が又再びバスの窓に見えてくる。空港はこの山の麓にある。シラス台地で、水はけが良い土地なのか、茶畑が広がっている。霧島茶だ。
鹿児島発羽田行のJAL最終便は8時15分だ。2時間前に空港に到着した。



月見橋の袂には大久保公の銅像がたっている。
イメージ 6



橋の中央には篤姫像。今度、来年のNHK大河ドラマは鹿児島が舞台になるようだ。
イメージ 7




電車通りを歩いて鹿児島中央駅にやってきた。駅前に立つ立派な銅像
イメージ 8




駅前からリムジーンバスに乗って、鹿児島空港へ。
イメージ 9




高千穂峰、今度こそ本当に見納めになるかも知れない。
イメージ 10