広場からは遠方におとぎの建物が見えている。
帰りは茂みの中の小径を通って、下山することにした。
又先ほどの小鳥に巡り合えると良いのだが‥
結局小鳥は会えずじまいに終わったが・・。
グエル公園山頂広場からのバルセロナ市内の眺望を楽しみ、白い航跡を残して港から出ていく豪華貨客船が視界から消えるのを待って、広場を下ることにした。この公園には後2か所見ておきたい場所がある。それはこの公園の名前の元となったグエル邸とガウディ邸の二つだ。丘の中腹のどこかにある筈だ。広場を下る前に街をバックに写真を1枚撮っておく。将来、いつかもう一度バルセロナに来ることがあるとしても、この丘の上までは来ることもないだろう。
下山は舗装された石畳の山道ではなく、茂みの中を歩いて下り降りる。以前と比べ足腰は弱ったとは言え、この里山程度の丘の茂み程度を歩くのは問題ない。かなりショートカットして再び元の石畳道に出ると、目の前に建物が見えた。グエル邸かガウディ邸のどちらかだ。少しばかりクリーム色がかったスタッコ仕上げの南欧風の建物だ。別荘風に見えるのは、今は住む人もなく、単に観光客用に保存されているからかも知れない。ガウディのイメージとは違って、普通の感じの邸宅だが、ガウディも実際住むとなると奇想天外、奇想奇天烈な建物よりは、普通の平穏な生活を望んだのかも知れない。
そう、ここは今からほぼ120年ほど前、グエルの出資によって、この丘ひと山を高級住宅地に開発すべく、そのプランニング、基本設計をガウディに依頼した。そうして丘は開発され、先刻の中央回廊なども出来上がったが、肝心の分譲の方は全くはかばかしくなく、買い手は一人として現れなかった。その理由は定かでないが、巷間言われていたのは、当時の交通事情からして都心部から随分離れた遠い場所、しかも丘の上で生活が大変、と言うことだったようだが、矢張り100年前の当時、ガウディ様式がスペイン市民にすんなりとは受け入れられなかったに違いない。
グエルとガウディのそもそもの出会いは、1878年パリで開かれた国際見本市(パリ万博)に際し、スペイン館で展示されていたガウディの作品(手袋店のショーケース)が気に入り、それ以来親交が深まって行ったとのことである。二人は敬虔なカトリック信者であり、1900年、グエルの支援によってサグラダファミリア教会の建設が着手された。当時グエルは紡績業を初め、幅広くビジネスで成功していて、同時に彼はこの広大な丘を購入し、金持ちを対象とする高級住宅地を建設すべく、その計画設計をガウディに任せることにした。処がその運営が失敗し、結局住宅が建ったのはグエルとガウディの2軒だけであり、その後グエルは1918年に、この丘の今見ている建物で亡くなった。
Count Eusebi Güell 、享年72歳。亡くなる10年前、彼はスペイン国王アルフォンソ8世より、伯爵、Countの称号を得ていた。その後の1923年にこの丘は遺族よりバルセロナ市に寄贈され、現在のグエル公園となったが、1984年、世界遺産に登録されたものである。
グエルの説明に長くなったが、彼とガウディ(Antoni Gaudi、1852-1923)は歳も近く、敬虔なカトリックとの共通点もあって、親交を深めると共にパトロンとなり、後年グエルの発注によるグエル邸、このグエル公園、グエル協会等の建造物が、世界遺産として登録されることとなった。
然しながら、当時にあって(今でもそうかも知れないが)ガウディの建造物が万人に好まれ、評価された訳ではなかった。当時、二人の間で交わされた会話がこの様に残されている。
on one occasion Gaudí said to Güell, "Sometimes I think we are the only people who like this architecture." Güell replied, "I don't like your architecture, I respect it."
ガウディ自身は自分の立ち位置を良く理解していたが、グエルはガウディ以上に本人の立ち位置を理解していた。それは丁度この少し後にここスペインのカタルーニャに現れたピカソやミロに通じるものであり、当時にあって彼等は世間からは全く評価されなかったが、100年後の今、多くの人々に愛され、持て囃され、高額な値段で取引されている。それは丁度10か所以上のガウディ作品群が現在世界遺産に登録されているのと同様だ。二人は、サグラダファミリアを始めとする数々の建築群を建造し、誰からも評価されないとしても、100年後の今日を見ていたのかも知れない。
下山は舗装された石畳の山道ではなく、茂みの中を歩いて下り降りる。以前と比べ足腰は弱ったとは言え、この里山程度の丘の茂み程度を歩くのは問題ない。かなりショートカットして再び元の石畳道に出ると、目の前に建物が見えた。グエル邸かガウディ邸のどちらかだ。少しばかりクリーム色がかったスタッコ仕上げの南欧風の建物だ。別荘風に見えるのは、今は住む人もなく、単に観光客用に保存されているからかも知れない。ガウディのイメージとは違って、普通の感じの邸宅だが、ガウディも実際住むとなると奇想天外、奇想奇天烈な建物よりは、普通の平穏な生活を望んだのかも知れない。
そう、ここは今からほぼ120年ほど前、グエルの出資によって、この丘ひと山を高級住宅地に開発すべく、そのプランニング、基本設計をガウディに依頼した。そうして丘は開発され、先刻の中央回廊なども出来上がったが、肝心の分譲の方は全くはかばかしくなく、買い手は一人として現れなかった。その理由は定かでないが、巷間言われていたのは、当時の交通事情からして都心部から随分離れた遠い場所、しかも丘の上で生活が大変、と言うことだったようだが、矢張り100年前の当時、ガウディ様式がスペイン市民にすんなりとは受け入れられなかったに違いない。
グエルとガウディのそもそもの出会いは、1878年パリで開かれた国際見本市(パリ万博)に際し、スペイン館で展示されていたガウディの作品(手袋店のショーケース)が気に入り、それ以来親交が深まって行ったとのことである。二人は敬虔なカトリック信者であり、1900年、グエルの支援によってサグラダファミリア教会の建設が着手された。当時グエルは紡績業を初め、幅広くビジネスで成功していて、同時に彼はこの広大な丘を購入し、金持ちを対象とする高級住宅地を建設すべく、その計画設計をガウディに任せることにした。処がその運営が失敗し、結局住宅が建ったのはグエルとガウディの2軒だけであり、その後グエルは1918年に、この丘の今見ている建物で亡くなった。
Count Eusebi Güell 、享年72歳。亡くなる10年前、彼はスペイン国王アルフォンソ8世より、伯爵、Countの称号を得ていた。その後の1923年にこの丘は遺族よりバルセロナ市に寄贈され、現在のグエル公園となったが、1984年、世界遺産に登録されたものである。
グエルの説明に長くなったが、彼とガウディ(Antoni Gaudi、1852-1923)は歳も近く、敬虔なカトリックとの共通点もあって、親交を深めると共にパトロンとなり、後年グエルの発注によるグエル邸、このグエル公園、グエル協会等の建造物が、世界遺産として登録されることとなった。
然しながら、当時にあって(今でもそうかも知れないが)ガウディの建造物が万人に好まれ、評価された訳ではなかった。当時、二人の間で交わされた会話がこの様に残されている。
on one occasion Gaudí said to Güell, "Sometimes I think we are the only people who like this architecture." Güell replied, "I don't like your architecture, I respect it."
ガウディ自身は自分の立ち位置を良く理解していたが、グエルはガウディ以上に本人の立ち位置を理解していた。それは丁度この少し後にここスペインのカタルーニャに現れたピカソやミロに通じるものであり、当時にあって彼等は世間からは全く評価されなかったが、100年後の今、多くの人々に愛され、持て囃され、高額な値段で取引されている。それは丁度10か所以上のガウディ作品群が現在世界遺産に登録されているのと同様だ。二人は、サグラダファミリアを始めとする数々の建築群を建造し、誰からも評価されないとしても、100年後の今日を見ていたのかも知れない。
茂みの中から本道の石畳に出る。
ああ、建物が見えた。グエル邸かガウディ邸か??
どちらにしても南欧風の普通の別荘か住宅のようにしか見えないが・・
再び中央回廊の上にやってきた。この通路の下が、回廊のホールになっている。
小1時間の気持ち良い散歩ができた。