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日々の連続

イベリア周遊の旅(41)ドウロ川へ。

エンリケ航海王碑の立つ広場の正面にはボルサ宮殿が建っている。大航海時代の商工会議所(Association Commerce Do Port)だ。
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広場の右端には古びた教会が建っている。
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サンフランシスコ教会だ。
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教会のすぐ下はドウロ川の河岸になっている。
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この遺跡のような古びた建物跡は、エンリケ航海王の住居跡と言われる。
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近世ポルトガルの歴史はポルト市内を貫流するドウロ川から始まったと言って良いだろう。遥か以前、ポルトガルを含むイベリア半島ローマ帝国の領土であったが、帝国が東西に分裂し、その後のRoman Massacre、ローマの虐殺を経て西ローマ帝国は崩壊し、8世紀以降ここイベリアはイスラム教徒の支配するところとなった。数学天文文学等高度な文明を誇ったウマイヤ王朝である。

それから数百年、地中海東方面では十字軍遠征によるエルサレム奪還闘争、西側のここイベリア半島では失地回復闘争、即ちレコンキスタが始り、半島の北側から徐々にイスラムを追い払い、キリスト教徒の失地を回復するようになってきた。その一つが昨日訪問したサンチャゴであり、ポルトガルではここポルトだった。

ポルトガル概略史によれば、11世紀、この地からイスラム教徒を追い払ったフランス貴族はこの地を領有し、ドウロ川上流部にブドウ園を開拓した。彼はこの地の名前を取って、ポルトカリア伯爵と呼ばれ、その息子アルフォンソ・エンリケスが初代ポルトガル国王となったものである。従って現在のポルトガルは実にこのドウロの河畔からスタートしたものである。ローマ時代、この地は河港を中心にして栄え、港を意味するポルトと呼ばれていたが、国名ポルトガルはこのポルトから由来している。

エンリケ航海王碑の広場の右端に古びた石造のサンフランシスコ教会があり、その直ぐ下はドウロ川であり、その川に面して航海王の半ば崩れ落ちた遺跡風の邸宅跡が残されていた。王はここから毎日河港を出入りする帆船を眺めていたのだろう。

川幅はかなり広く、対岸までは1キロはありそうだ。水量も豊富で大型帆船が航行するに十分な水深もありそうだ。観光船なのか、川の中程を航行し、今、対岸との往復をするシャトルボートも走っている。OECD内におけるポルトガルの位置づけはどの程度か知らないが、その斬新なデザインのボートを見ていると、ポルトガルの、外見だけかも知れないが、リッチさが感じられた。さて、これから河岸のテラスを歩くことにしよう。



この遺跡の直ぐ前はドウロ川だ!
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水量豊富で川幅も広く、水深も深そうだ。
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遊歩道も幅広く取ってある。
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バンコクチャオプラヤー川のような賑わいはないが、これはこれで落ち着いて良い。
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この両岸の段丘に沿って町が発展してきた。
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ああ、随分モダンな渡船が航行している。
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