ちゃおチャオブログ

日々の連続

イベリア周遊の旅(64)モラエスの生家にて。

カフェのマスターにお願いして、店の前で1枚写真を撮って、モラエス旧居へ向かう。
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ポルトガルのMEO Driveで比較的簡単に行きついたが、モラエスの生家はこの路地の先にあった。
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この路地の左側の3階建てが彼の生家だった。
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ここでモラエスは生まれ、育ち、最後の時を日本で迎えた。
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ここがその入り口。
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ポルトガルには、ポルトガルのみで利用できる便利なナビウオークがある。それは無料のインターネットアプリで、MEO Driveという。一休みしたカフェテラスVIOLETAのオーナーが、やにわに当方のスマホを取り上げ、このMEO Driveをインストールしてくれて、モラエスの住所をインプットした。日本で使っているナビウオークよりも便利で機能的で、その場所まで矢印で道順を示し、要する時間も分単位で示してくれる。

そのMEO Driveの指示に従ってモラエス生家に向かうが、ここからは徒歩で5分位の距離だ。300m程の表示がでている。場所はこの大きな病院、St. Maria Hos.の敷地内を横切って、病院の裏側の高台に出て、そこから少し行った先だ。この辺りはすべて住宅で、2階、3階建ての集合住宅が多い。モラエスの3階建ての住宅もそんな中にあった。斜面の高台に近い場所に建てられているから、窓からはリスボン市内の眺望はよいだろう。

それは普通のリスボン人が普通に生活するような住宅だった。何か特別なものがあるとすれば、入り口ドアの上に日本語とポルトガルの2か国語で以下の表示があることであった。「葡国海軍士官にて作家たりしモラエス(1854-1929)が生まれ育ちたるはこの家なり。長き歳月を愛する日本に過ごしたる彼は祖国に思いを馳せつつかの地に死せり。日本国宇留野清華言」。

宇留野清なる人が何時の時代の人で、如何なる人物かは自分は知らないが、多分モラエスの研究者に違いなく、研究を極めててこの場所、モラエスの生家を探し当てたに違いない。たまたま通行人がいて、自分もこのドアの前に立ち、1枚記念の写真を撮ってもらった。今度は自分がここまでやって来た意味を考えた。

自分は研究者でも何でもない。たまたま30数年前、毎日新聞に連載されていた新田次郎の「サウダーデ・孤愁」を読み、その連載の途中で新田が急逝し絶筆になったが、その数年後徳島を旅行した折、眉山の山頂にモラエス記念館があって、モラエス及び新田次郎を記念する展示品が幾つかあって、人生の儚さ、偶然を思ったが、それから20数年、新田の息子さんの藤原正彦が父親の絶筆を書き足して、上下2巻の本に仕上げた。

それを読み2年前徳島を再訪したのだが、山頂のモラエス館はもう既に閉館となっていた。しかし市内のお墓や、彼が最後に息を引き取った借家跡などは見ることができた。今自分はこうして徳島の旧居、領事であった神戸、それ以前の副司令官だったマカオを訪問し、最後にこの場所、彼の生家に行きついた。結局自分はモラエスの軌跡を逆に辿ることにより、自身の青春時代への回帰、思い出探りをしていたのか・・。モラエスはきっぱり過去の人生を断ち切り、徳島の地に骨を埋めた。自分は、過去の自分を追い求めて、日本から遥々この地までやってきた・・。未だ人生の生き方を探しあぐねている自分の姿がそこにあった。



ドアの上には日本語とポルトガル語で、案内板が掲示されていた。
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高台にあるから、リスボン市内は一望だろう。
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通行人にお願いし、建物前で1枚写真を撮ってもらう。
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モラエスを尋ねる最後の旅。漸く生家に辿りついた。
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暫くモラエスの生家を眺め、先刻のカフェーに戻ることにした。
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