ちゃおチャオブログ

日々の連続

奄美の3日間(14)おがみ山・奄美復帰記念碑。

おがみ山頂の記念碑に向かう小径。
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おがみ山山頂の正面には奄美復帰記念碑が建っている。
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石碑の左側には詩人の泉氏の詩碑が彫られている。
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右手には泉氏の銅像
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石碑の周囲は雑草に覆われ、眼下の視界が開けない。
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14年前、両陛下が初めてこの島を訪れ、それに合わせこの山の中腹に行幸広場が作られた。この広場の高台から名瀬市内を見渡された両陛下は、ここから更に山頂に向かう長い階段を登ったであろうその階段を自分も登り、山頂に向かった。その山頂には昭和28年、この奄美大島が米国施政下より日本国に復帰したことを記念する石碑が建っている。このおがみ山自体も、この時の復帰を記念して公園に整備されたものだ。

山頂は平らに整地されていて、その一番奥、即ち名瀬市内を一望できる位置に復帰記念碑が建っていた。今から既に60年以上が経過し、石碑も古びてはいるが、天に向かって伸びるそのシェープは島民の願いが込められているようだ。その石碑の前には地元の詩人泉芳郎による喜びの詩が刻まれている。それは7年間の米国からの復帰運動、晴れて日本国に戻ることができた喜びを寿ぎ、高唱するものだが、多くの日本人はこのことを知らない。

多くの日本人は沖縄・硫黄島での日本軍と米軍との熾烈な戦いを知っていて、その結果この両島は長らく米軍施政下に置かれたが、奄美も同じく組み入れらたことは余り知られていない。この島では米軍との直接的な戦闘が無かったのだから、日本人にはこの島嶼が鹿児島県から切り離されて、米国行政区に入れられた理由すら知らない。それは丁度、日本の敗戦のどさくさに紛れて、韓国が竹島を不法に占拠し、旧ソ連が北方4島を占拠し続けている状況と似ていて、一時的にせよ米軍は韓国ソ連同様の火事場泥棒的な行動を取ったのだ。だが、米国、米軍の立派で、且つ信頼のおける点は、比較的早い段階でその不当な占拠の誤りを正し、日本国に返還したことであり、未だなお不法に占拠し続けているロシア・韓国とは大いに異なる点である。

山頂の平地はかなり広々としていて、この記念碑の前で大勢の人々が集まって式典を執り行うには十分な広さだった。石碑に向かって右側に泉芳郎氏の銅像が建ち、左手には詩文が埋め込まれている。この「おがみ山」、本土復帰を記念する公園に整備される以前は人々の神聖な場所で、祈りの場所だった。「拝み」と書くのか、「御神」と書くのか、今では地元の人にも分からないとのことだ。それは丁度「かけろま」の音韻が「加計呂麻」の当て字になっていると同じことで、どちらにしても余り意味のないことだ。人々にとって「おがみ」が大事で、漢字でどう表そうと、どちらでもよいことだった。

復帰記念碑の台座に登り、何故なら周囲は雑草と灌木に覆われ、台座の上に上がらないと名瀬の街並みが良く見えないからなのだが、眼下の港を見下ろすと、港は真西、東シナ海に向かって開けている。ああ、この光景。夕日が沈む方向の西方浄土、にらいかないの海が眼下に広がっているのだ。そうか、ここは「うがん」だったに違いない。「おがみ」は「御願」だったのだ。

陛下がここまでやってきて、復帰記念碑に真向い、又眼下のにらいかないの海を眺め、どう思ったかは知らない。しかし矢張りここは神聖な聖地で、やって来るもの正面の記念碑に向かえば、自ずと首が垂れる。昨日一昨日の二日間のドライブで、萎えた足腰を叱咤してこの台上までやってきた意味はあった。遠方から見る石碑は依代のようにも思え、嘗て人々がここに集まり、祈りを捧げた情景を思い浮かべた。「おがみ山」。



石碑の台座の上に登って見下ろすと、ああ、この光景、にらいかないの海に違いない・・
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おがみ山の神聖な霊気に触れて、下山する。
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下山途中、公園整備事業で作られた運動公園などもあったが、子供はおろか、誰もいなかった。
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おがみ山麓の山道入り口横には鹿児島県庁大島支庁の建物があった。・・ひょっとするとこの場所には米軍政府の庁舎があった場所かも知れない。歴史は受け継がれる。
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大島支庁まえの樹齢数百年の古木、赤木。島の歴史を黙って見続けてきた。
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約1時間、良い山歩きができた。
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