ちゃおチャオブログ

日々の連続

「由美子、難病SLEとの戦い」(1)発病。

 
<発病>
8月20日、妻由美子は急死した。長い戦いは終わった。30数年に及ぶSLEとの闘いの後、由美子には穏やかな死が訪れた。もうこの先、痛みに苦しめられることの無い、安堵の微笑みを浮かべていた。人はいつかは死ぬ。生を受けた以上、死んでいくのは人の定めだ。早いか遅いかの違いはあっても、由美子は8月20日の朝、68歳の生涯を閉じた。波乱万丈ではなかったが、平穏な生涯でもなかった。殆ど一人で戦い、一人で苦しみ、その病魔からは遂に逃れることも出来ず、旅立って行った。
 
31年前の夏、由美子が看護婦になって2年目の37歳の時、身体の不調を訴え、勤務していた都立府中病院で診察を受けた処、担当の女医から膠原病の疑いがあるとの診断を受けた。それから暫くして血液検査の結果、抗体に異常が分かり、膠原病は確定的なものとなって、即入院となった。家族同席での病状説明の際、その女医からは「この病気は予後が悪いですよ。」と言われた。その時、「予後が悪い」、の意味は自分には十分理解できないものだった。後で知ることになるが、膠原病には何種類かの症病があり、いずれもその発症の原因ははっきりせず、従って明確な治療方針も立てられず、殆どが対処療法的な、表に現れた顕在化した症状を叩き、緩和させていく以外の抜本的な治癒は望めないことだった。一度罹患したら、生涯治癒の見込めない、厄介な病気だった。
 
その時の自分には、そうした知識もなく、膠原病と聞いて、直ぐにも死ぬかも知れない、大変危険な病気で、まだ長男が10歳、長女が8歳で、もしも妻に先立たれたらこの先家族はどうなるだろう、と途方に暮れたが、看護婦である由美子はそうした膠原病に関する知識もあり、勿論大きなショックを受けたには違いないが、少なくとも自分よりは肚が座っているように思えた。
 
それからの由美子の膠原病との戦いは始まった。家庭内での戦いも始まった。母親のいない家庭、子供達も本人達なりに努力し、頑張り、毎日の生活を支えた。その間、近所の生協の人をヘルパーで頼んだり、ヨシケイの宅配料理を頼んだり、由美子も又電話の出来る時は毎日のように電話をしてきて、子供達に元気づけをしてくれていた。自分が重い病気なのに、子供達を思う母親の気持は強いものだった。土曜か日曜、休みの日には子供達を連れて病床を見舞うと、本当に嬉しそうな顔をしていた。はかない命。ベッドに横たわる妻を見ていると、時々そんな風に思えてきた。
 
 
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