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日々の連続

由美子、難病SLEとの戦い(5)東京地裁裁判官への陳述書

 
 
                        1999年7月15日
               陳述書
 
東京地裁裁判長殿                      
                       原告 夫稔夫 署名捺印
 
由美子が膠原病に罹患したのは今から約10年前、平成元年のことでした。当時の私は素人的にこの病気は過酷な職業から来たもの、職業に起因する病気であると考えていました。ハードに肉体を酷使したり、精神的に強いストレスを受けた時のような、一定の条件下にしか発現(発病)しないのではないかと思っていました。
約1年間の病気療養・休業の後、もうこれ以上の長期療養休暇は規定上取得できない段階で、由美子は通常の病気欠勤後の退職という形であっさりと都を退職しました。由美子も3年間看護学校で苦労し、折角入った都に、看護婦としての激務故になった病気にもかかわらず簡単に都の職員を辞めてしまうことに、由美子なりの潔癖さはあったにせよ、私としては少々もったいない、3年間の苦労が報われない何か損をしたような感じも持ちました。
当時の私としては小学生の二人をかかえ、妻の急な入院で、毎日の家事が戦場のようなものでした。
 
由美子は性格的に真面目で、私は実際に彼女が看護婦としてどのように働いていたか見ていた訳ではありませんが、おおよその見当はつきます。上司の命令には忠実で、マニュアルに決められていることを決められた通りに行い、その場ではどんなにきつくても苦しくても愚痴は吐かず、一生懸命に自己の職務に忠実に、自分に与えられた職業上の義務を果たそうとしていたに違いありません。
 
看護婦として働く様になってから最初の数か月は、見るもの聞く事すべてが新しい経験で、新鮮な思いの中で疲れを感ずる暇もなかったかも知れませんが、だんだん環境に慣れて疲れも感ずるようになってきても、最初の内は言葉にも表情にも表さず、しかも従来通り手抜きもせず、疲労が徐々に蓄積していったものと思います。慣れない夜勤、準夜勤等の昼と夜の逆転する日常生活の中でも、我慢強い女性でもありますから、弱音を吐いたり、ずる休みをするようなことはありませんでした。
 
 
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