ちゃおチャオブログ

日々の連続

江南周遊(9)空中散歩、長崎五島沖へ。

博多湾を過ぎると糸島半島が見えてきた。手前の森は背ぶり山か・・。
イメージ 1


ああ、唐津湾に面した虹の松原も見える。
イメージ 2


ああ、呼子の海。名護屋城はどこだろう・・。
イメージ 3


ああ、もう松浦湾か・・。
イメージ 4





博多港のフェリー波止場から眺める湾は、右手に海の中道志賀島、左手に能古島と、この二つの島に扼腕されるように守られた、先般大津波に遭って大きな被害を受けた三陸海岸の良港の幾つかと同じように、天然の良港を形作っていたが、今、空から眺めると、その優れた天然性を改めて感じることができた。何と能古島は外洋の荒波を防ぐ防波堤の島ではなく、湾内にある島だったのだ。フェリー波止場からは全く見えなかったが、この能古島の更に外側に防波堤の役割をする糸島半島が大きく湾を守り、更にその外には玄海島もある。この博多湾は二重三重に外海から守られていたのだ。

天然の良港、卑弥呼の時代からこの港は半島、大陸との日本の窓口になっていた。博多湾の直ぐ先には糸島半島唐津、松浦等々の日本の多島海の海岸線、島々も見える。文禄慶長の頃には、この島影のどこか、名護屋城の港から朝鮮征伐に秀吉配下の武将団が大挙して船出した。機上から眺めていても、名護屋城はどこか、その場所は分からない。尤も、朝鮮征伐の後、その名護屋城も家臣団の館も港も打ち捨てられ、解体されて、今空から見てもその名残すら見つからないが、昔防人、この時は純金製の茶室まで作らせた秀吉の時代の国力の高まりを思った。

鷹島は松浦の直ぐ目の前にある島で、この島の海底からは元寇の役の時の蒙古の沈没船が幾つか引き上げられている。中国にまで鳴り響き、後の倭寇の原型ともなったマツロ水軍。松浦衆の荒くれに沈められたのだ。対馬海峡を間に、倭国日本と半島、中国との攻防の歴史。空から見る海は、そうした血生臭い歴史を他所に、海の青と島影、海岸線が複雑に続いている。細長い半島のような岬は、どこかの島のものだろう。長崎の半島にしたら狭すぎる。海上を少し進み、次に又島の上空を飛ぶが、そこはもう五島だろう。賑やかな街並みは福江港に違いない。



鷹島はどれだろう・・。対馬は見えないが、壱岐は見えそうだ。
イメージ 5


洋上へ出た。細長い半島はどこだろう・・。
イメージ 8


ああ、もう五島上空だ。
イメージ 6


東シナ海洋上へ出た。ここから上海までは一飛びだ。
イメージ 7