ちゃおチャオブログ

日々の連続

江南周遊(10)洋上飛行。

五島列島を離れると、後は洋上飛行だ。モニターに目をやると、高度は24,000フィート(約8000m)、速度は時速410マイル(600キロ)と表示されている。
イメージ 1


飛行ルートも出ている。成田を出た機は、瀬戸内上空を縦断し、九州五島沖を飛行している。
イメージ 2


30分も経ったろうか・・、洋上に島影が見えてきた。もう上海沖なのか・・。
イメージ 3


しかし、スモッグなのか黄砂なのか、空気が淀んで良く見えない。
イメージ 4




東京から上海までの約3時間の飛行。内、東京から九州長崎沖までが約半分の1時間半、残り時間半で、五島列島から先上海までは海の上、洋上飛行だ。窓の外に見えるのは空と海と雲だけだ。小野妹子が向かった隋の国、昔の遣隋使やその後の遣唐使朝鮮半島を経由して行き来していたが、663年、白村江の戦いの戦いに大和百済連合軍が破れ、半島は新羅が支配する処となり、それ以降の遣唐使は半島を避けて、この長崎沖から中国大陸本国と直接往来するようになった。

眼下に広がる大海原。対馬海峡だったら、島伝いに対岸の半島も望遠でき、船乗り、留学僧にとっても安心感が持てるが、360度、どこを見渡しても島影すら見えない海原に船を漕ぎだした当時の船員、旅行者の心細さはどんなだっただろう。鑑真和尚が布教の目的で遥々日本を目指したが、5度の遭難の末、漸く6度目にして九州南端、薩摩の坊津へ漸く辿り着いたのも、この海の上での出来事だった。当時中国の税関に当たるような対外窓口は上海の少し下の寧波にあり、日本には博多の鴻臚館があったが、出先の一つとして、その坊津にもあった。後年フランシスコザビエルが初めて日本にやってきた時も、暫くの間、その坊津に留め置かれたのだ。

一衣帯水は、日本と半島を分断する対馬海峡を指して言うが、今眼下に広がるこの海、東シナ海も平安期以降の日本人にとってはそうだった。戦前は日本と大陸を結ぶ航路として、長崎ー上海航路が主要ルートの一つであり、東京駅から夜行列車で一泊し、長崎港から更に1泊し、翌日には上海に着けるという、最短のルートでもあった。今でもまだ残っているかどうかは知らないが、戦後の暫くもあり、当方の友人の吉田氏も学生時代長崎から船に乗って上海へ旅行した、と話していた。

一衣帯水は、今の航空機の時代では指呼の間になるか。五島を離れた機は30-40分もしない内に大陸の陸地が見えるようになった。本当にひとっ飛びだ。しかし、この海の色は何だ! 山紫水明の日本からやってきた者には、ここは通常の海ではなく、泥沼のような海にしか見えなかった。





ああ、大陸の海岸線が薄っすらと見えてきた。
イメージ 5


ああ、もう浙江省の海岸線だ。
イメージ 6


この海と空の色は頂けない。空も海も淀んでいる。
イメージ 7


空気が澄んでいれば、上海の街並みも見える筈なのだが・・
イメージ 8